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第3回 11月28日(土)13:30~18:00

上映作品:
『SOLARIS』
(2007年。濱口竜介監督)

『「女の小箱」より 夫が見た』
(1964年。増村保造監督/出演:若尾文子 田宮二郎 岸田今日子)

『PASSION』(2008年)が、第9回東京フィルメックスと第56回サン・セバスチャン国際映画祭(スペイン)のコンペティションに正式出品という衝撃的デビューを飾った、若手のホープ濱口竜介監督。
今回上映する濱口竜介監督『SOLARIS』は、タルコフスキー『惑星ソラリス』のリメイク。東京藝大在学中に制作した長編で、基本的に東京藝大内でしか上映されたことはありません。この作品は、今回上映する増村保造監督の作品を参考にして作った部分が多いそうで、その辺の解説も興味深いところです。
聞き手は『携帯彼氏』が全国公開中の船曳真珠監督。東京大学文学部、東大の映画研究会、東京藝大大学院・映像研究科・監督領域で一緒だったという、お二人のトークにも注目です。

ゲスト:濱口竜介(映画監督)

1978年生。東京大学卒業後は自作製作と並行して映画、テレビの助監督を務めた 後、06年に東京藝術大学院映像研究科に入学。長編『SOLARIS』『PASSI ON』などの監督・脚本を手掛ける。
『PASSION』は2008年のサンセバスチャン国際映画祭、東京フィルメックスのコンペに出品されるなど、国内外の映画祭で上映された。自主制作で新作を完成させると共に、現在は2010年公開予定の日韓共同製作作品を準備中。

聞き手:船曳真珠(映画監督)

(ラブ・サスペンス『携帯彼氏』が全国公開中)
1982年生。東京大学在学時に自主制作した監督作『山間無宿』(00)が調布映画祭でグランプリを受賞。以降も自主制作で映画作りを続け、映画美学校フィクション科を経て短編『夢十夜・海賊版「第五夜」』を監督、同作は07年に吉祥寺バウスシアターで公開された。06年東京芸術大学大学院映像研究科に入学、在学時に監督した『夕映え少女』と卒業制作『錨をなげろ』は共に08年に渋谷ユーロスペースで公開された。
09年には初の長編劇場作品『携帯彼氏』を監督、同作は全国30館以上で公開中。

13:30-15:08(1時間38分)
ゲスト紹介と上映作品についてコメント(6分)…濱口竜介監督+船曳真珠監督
映画上映『「女の小箱」より 夫が見た』(92分)
15:08-15:20(12分)
休憩
15:20-16:55(1時間35分)
上映作品についてコメント(5分)…濱口竜介監督+船曳真珠監督
映画上映『SOLARIS』(90分)
16:55-17:05(10分)
休憩
17:05-18:05(1時間)
対談…濱口竜介監督+船曳真珠監督

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開会の挨拶

司会・伊達: 本日はお越しいただきありがとうございます。カルト・ブランシュを始めさせていただきます。今活躍されているゲストに、日本映画の良さを改めて語っていただき、日本映画の魅力を発見していくこの企画。本日は第3回で、濱口竜介監督に映画のセレクトをしていただき、船曳真珠監督と対談していただきます。ゲストの濱口竜介監督は、御存じの方も多いと思いますが、東京大学文学部、東大の映画研究会、そして東京藝術大学・大学院の監督領域で映画を学ばれ、最新作『PASSION』(2008年)がサン・セバスチャン国際映画祭や東京フィルメックスで上映されるなど、高い評価を受けている若手監督です。現在は2010年公開予定の日韓共同の作品を準備中だと伺っています。聞き手の船曳真珠監督は、この方もご存じの方も多いと思いますが、濱口竜介監督と同じく東大の文学部、東大の映画研究会、東京藝大の大学院の監督領域で学ばれて、大学1年生の時の監督作品が調布映画祭で受賞されるなど、非常に早熟な方です。今年(2009年)は、つい先ほどまで初の長編商業映画『携帯彼氏』が全国でロードショーされていました。では紹介はこのくらいにして、ゲストの2人に登壇していただきたいと思います。

両監督の挨拶と、上映作品の説明

濱口: 監督をやっております濱口竜介と申します。
船曳: ご紹介にあずかりました船曳真珠と申します。
司会・伊達: お2人からこのあと上映される増村保造監督の『「女の小箱」より 夫が見た』(1964年)という映画について簡単に紹介していただいて、そのあと上映に移りたいと思います。
濱口: これは1960年代前半の、増村保造監督の大映時代の作品です。増村の作品はDVDに結構なっているのですけど、この作品は見る機会があまりない。
船曳: そうですね、これは何故か。
濱口: 前半は少し首をかしげるかもしれませんが、後半は本当に最高傑作と言ってもいいくらいの駆け上がり方をしていく。私の作品『SOLARIS』をこのあと上映するのですが、それとセットで見ていただけると面白いのではないかなと思い、選びました。
船曳: ではさっそく増村保造の濃密な世界をご堪能いただいて。
司会・伊達: ではこれから映画上映に移らせていただきます。


--- 映画『「女の小箱」より 夫が見た』(1964年)の上映 ---


司会・伊達: いまご覧いただいた『「女の小箱」より 夫が見た』についてのお話は、もう1本見た後にまとめて、お2人にお話していただきます。まずは、このあと上映される濱口竜介監督ご自身の作品『SOLARIS』について、お話をいただけたら。

視線に着目する

船曳: 私と濱口さんが通っていた東京藝術大学の映像研究科映画専攻の、1年目の実習でしたか、教授の黒沢清監督が、作家スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリスの陽のもとに』(原題はSolaris)を原作にして、『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督、1972年)と『ソラリス』(スティーブン・ソダーバーグ監督、2003年)よりすごい映画を作れという指令を出しまして、監督領域の院生6人と脚本領域の院生1人が脚本を提出して、そのうち、濱口さんのものが選ばれて作られた長編です。
濱口: 先ほどは、『「女の小箱」より 夫が見た』を上映していただいたのですが、「見どころを先に言ってくれ」と言われていたのに、言い忘れていました。見て分かっていただけるのが一番理想で、言い過ぎるのも何なのですが、気にして見ていただけると面白いと思うのは、「人物が一体どこを見ているのか、誰を見ているのか」。さっき『「女の小箱」より 夫が見た』を見て、これ1本を参考にしたわけでは全くないのですが、驚くほど似ているような気がする。「似ているから何だ」と思うかもしれないですが、是非、楽しんで見て頂けたらありがたいなと思います。
司会・伊達: 『SOLARIS』は、東京藝術大学の学内でしか基本的には上映されたことがない作品でして、今回、東京藝大のご好意によりこの場での上映が実現しました。
ありがとうございました。これから上映したいと思います。


--- 映画『SOLARIS』(2007年)の上映 ---


司会・伊達: これから約1時間、質疑応答も含めて、お二人にお話しいただきたいと思います。ではお願いします。
濱口: よろしくお願いします。

増村保造監督の演出。視線、台詞劇

船曳: 今回、濱口さんがこの2作品をセレクションした理由ですが、さっき増村保造監督の視線劇としての側面を参考にされたとおっしゃっていたかなと。
濱口: まず本当に見ていただいて、ありがとうございました。この2本、増村保造監督の『「女の小箱」より 夫が見た』と自作品『SOLARIS』を選んだ理由は、分かり易く言うと『SOLARIS』というのは増村作品を参考に作られている。どういう部分を参考にして作られているかというと、視線の作り方と言いますか。いきなりマニアックな話から入ってしまいますが、映画の作り方ってねえ、色々と悩むじゃないですか。
船曳: 1本の映画を作るにあたって、何を軸に置くかですか?
濱口: そうです。それまで自分が作ってきたことの延長線上にありつつ、でも何か新しいことをしたい。『SOLARIS』という課題を振られたときに…、まあこの課題は無理難題です。
船曳: 魅力的に感じましたけど、難しい事に変わりはないですね。
濱口: 学生映画というほど低予算ではなく、一応学校から予算をいただいて作ったものの、非常に無理難題を押し付けられたという感覚があって。この『SOLARIS』という題材をどういう風に料理したらいいのか非常に悩みました。原作ものというのも初めてでしたし。それで考えたのは、台詞(せりふ)でやる。台詞劇でやれば、金も時間もない我々の体制でも撮り切れる。ただ台詞というのは、これだけ台詞の多い映画を作っておいて言うのも何ですけど、基本的にはつまらない。単に台詞劇の映画になると非常につまらない。じゃあ台詞劇をどういう風に撮るか。そんな時に出会ったのが増村だったんです。『SOLARIS』のシナリオを書いている2カ月前くらいに、大量に増村作品を見ました。増村作品の視線は、2人の人間が見つめ合うことはほとんどありません。誰か1人が他のもう1人を見つめているということはありますが、誰か1人絶対画面の外の方を向いている。これを参考にしようと。
船曳: なるほど。私は『SOLARIS』に助監督・特撮進行・特殊メイクとして参加しましたが、助監督でスタンドインをして最初の立ち位置をセッティングするときに、「相手に背中を向けている」というポジションがすごく多かったと覚えています。
濱口: 気付かれましたか。
船曳: はい、やっぱりまあ不自然というか、でもそういった空間的関係のまま会話は進行して。その不自然さというのは、やはり視線の意味を考えるところから導かれたんですか。
濱口: そうですね。役者さんにしてみたら非常にやりにくかったと思います。舞台だったら観客のほうを向いてやるのが普通ですし。映画で普通に役者さんに任せると、役者さんの生理みたいなものに任せると、話し合うときは見つめ合ったりする。ずっと見つめ合うわけじゃなくて、外したり見たり、リアルにやるとそういう感じなのですけれども、ただ、そんなリアルさによって逃げて行ってしまう何かがある、と常々感じています。台詞というものは普通に聞いていると、それが本当かウソか分からないことが多いと思うのです。でも増村作品では本当のことを言っているようにしか聞こえない。これは一体何だろう、いわゆるリアルさとは違う真実らしさがここにはあって、台詞に何かが力を与えている。それは何か、「視線」というものが非常に大きな働きをしているのではないか、ということをある時思ったんです。
船曳: なるほど。例えば主人公の健二がソラリスの海から生まれた真理子を海に突き落とす場面があるじゃないですか。真理子は落ちていなくなりました、すると次のショットはたいていの場合、落としてしまった健二の表情なりを見せる1ショットにするはずなんです。ところがカメラが戻ると、健二の後ろにはすでに渋川清彦さん(須永)が、ずっとそこにいたように佇んでいる。そして須永は健二と視線を合わせるでもなく、「しかしこれはあまりにも殺人と似ていないだろうか」というセリフを落ち着いた口調で発する。大胆な構成だと思います。見ようによっては笑ってしまいそうなんですが、「そうなるんだ」と見せ切っているところで増村の映画を思い出しました。理論を軸にしてフィクションを組み立てていくことに果敢に挑まれているんだなと。生理的な感覚だけで撮られた、最近よくある映画とは全然違う感触を得ました。
濱口: ある強固なフレームの中で、視線はどこか遠くを見つめていて、台詞も一応すぐそばのこの人に話しかけているのだけど、本当にその人に話しかけているのかどうか分からなくなる。日常的な感覚からすれば非常に荒唐無稽で、そこでの台詞は普通の会話ではないけれど、劇としてのリアリティを強く獲得していく。そういうことが、特に増村の方法論なら可能だと思いました。それで出来たのが『SOLARIS』です。皆さんが本当のところどう思ったかは、ちょっと聞いてみないと分からないですけど。
船曳: スペクタクルを避けて会話劇にしたのは、もちろん我々の制作規模がB級映画と似た規模だったということもあると思うのですけど、濱口さんの作品群で特徴的なのは、人物の会話で映画が成り立っている。そういう一貫した映画づくりの中で、これも考えていたのですか。
濱口: そうですね。会話劇というか、なぜ台詞を使っているかというと、基本的には予算がない。お金がない、時間がない。でもそういう中で、あるシーンを成り立たせるときに、台詞というのはまだ使われていないものだなと常々思っていました。映画を作る人は、何故か台詞を避ける傾向がある。「台詞が多い映画は、映画の力を削いでしまう」と考える風潮がある。でも増村作品を見ると全然そういうことはないですよね。台詞と画面が一体となって迫ってくる映画づくりが可能なのだなと。「お金がないから台詞劇」という、最初はすごく消極的な理由から、台詞で映画を構成し始めたのですが、これはポジティブに映画づくりの中に台詞を注ぎ込めるなという勇気をもらいました。
船曳: 登場人物の中で渋川清彦さんがすごく異質な感じがするじゃないですか。作り込まずに、素直にそのまま喋っている。それが上手くいっているところもあるし、そうじゃないところもあると思うのですけど、その後も濱口さんが渋川清彦さんと組んでいるのは、その異質さが面白いと思ったからですか。
濱口: そうですね。皆さんも感じたかもしれないですけど、須永役をやっていた渋川清彦さんの台詞回しというのは、ああいう非常に硬質な台詞を言うのに、明らかに慣れていない。今日見ていて「案外ちゃんと言ってくれている」と印象をむしろ持ったのですけど(笑)、撮影時は本当に無理強いと思いながらも、本人も挑戦として受け止めてやってくれました。『SOLARIS』では、役者の生理とは離れたところで芝居をしてもらいましたが、それが違和感として映画の中に残ってしまったという思いがあったので、次はすごく生理に合わせた演出というのを目指して『PASSION』を撮ったんです(渋川清彦さんも出演)。それはそれとして、『SOLARIS』という映画の中で、須永役は人間的な魅力というのが絶対に必要な役だなと感じていました。渋川清彦さんにはそういう人間的な魅力というのがすごくあったんですね。それをうまく映画に取り込めないかと思い、それで無理矢理ながらやってもらった。でもやはり良かったのだと思っています。

キャラクターがぶつかり合う

船曳: 渋川清彦さんはやって頂けて良かったと今日改めて思いました。それと柳瀬役の方、面白いです。
濱口: 赤ん坊を殺すところで、爆笑していましたよね(笑)。
船曳: あの赤ちゃんの現場での嫌がり方が本当にすごかった。それを思い出しちゃって。「あれこそ地獄だったな」と。
濱口: ホントに酷かった、あのときは失礼しました。
船曳: いえいえ、そんなことないです。それとあのいやらしい佐久間(酒井健太郎)も最高だなと思って。舞台の方ですよね。
濱口: そうです。今日聞いても、酒井さんの台詞が一番聞き取りやすいと思いました。
船曳: キャラクターがくっきりしている感じで。それぞれの役者さんの持ってきた資質や経験が持ち込まれて、面白い作品になっていると改めて思いました。
濱口: ありがとうございます。図式的なキャラクターがぶつかり合うというのも、どうかと不安はあったのですが、『「女の小箱」より 夫が見た』でも、川崎敬三が演じる夫とか田宮二郎の役とか、すごく図式的なキャラクターですよね。やっぱり、キャラクター然としたキャラクターのぶつかり合いでしか生まれて来ないものってあって。今回うまくいっているのかは、また別の問題ですけど。正確にはでもそれは、ぶつかり合っている、というのとは少し違うかもしれません。それは視線の問題ともからむことなんですが、ある力が人から人へ、受け渡されて行く。その力の行き交いが映画を形作っている。『夫が見た』では、その力が若尾文子に集まっているような気がします。

増村保造監督の女性の描き方

船曳: もう一つ、増村作品と共通していると思ったのが、女性と男性の関係性です。最初は被虐的で犠牲者であった女性が、だんだん力をつけて自立するという流れが似ている。あと今おっしゃったように、男性のキャラクターは結構図式的なのですけど、『「女の小箱」より 夫が見た』の若尾文子は、作品のなかで一番複雑なキャラクターであり内面を感じさせる人物です。『SOLARIS』の真理子も、ソラリスの海から生まれた人工物みたいなものだけど、複雑な内面性を持っていますよね。その辺りどうですか。
濱口: そうですね、増村保造監督の女性の描き方には非常に感動しています。若尾文子さんは、彼女は吉村公三郎監督とか溝口健二監督の映画にも出ていますが、やっぱりこの増村保造監督と組んでいるときに、特にすごいなあと思います。そのすごさが何によって起こっているのか。
船曳: 若尾文子さんが溝口健二監督と組んでいるときに、助監督で増村保造が入って、そのあと監督と女優として組むことになったと思います。だから監督と女優という関係になった後でも、「対等に張り合ってやろう」という気持ちがあって、溝口健二監督や吉村公三郎監督などの巨匠とはまた違った関係だったのじゃないかと。
濱口: 確か若尾文子さん御自身もインタビューで「増村保造監督とはいつも戦いみたいな気持ちでやっていた」と仰っていたと思います。増村保造監督の他の作品も見ているのですけど、他の女優さんで良い人たちも沢山いるのですが、やっぱり若尾文子との組み合わせが飛び抜けています。もちろん特質が上手く合っているのだと思うのですが、虐げられているというのも、まず何かに拒絶される。人間として、女として認めてもらってないような感覚を味わう。若尾文子は最終的にはやはり勝気な感じが似合うと思うですけど、あの目線でジっと画面外を見ていくときに、彼女は何を見ているんだろう、と。僕は彼女は自分自身を見ているんだ、自分の精神を見つめているんだ、という気がします。若尾文子の中に何か力が貯まっていくように感じます。映画の後半になったときに、その貯まった力が何か違うステージに行く。ずっとフレームの外に向いていた若尾文子の目線は、ある場面でいきなり田宮二郎に目線を向ける。力がわっと解放される。最初は虐げられているけれど、女自身が見始めるとすごい力を解放して、見つめられた男たちは、今度は若尾文子を見つめることができず破滅してしまう。そういうことを考えていたような気がします。
船曳: 増村保造監督の描く女性像が、若尾文子さんの資質と反応し合ったと。
濱口: そうですね、もちろんこれは男性目線からの女性像という感じもします。女性というのはそういうものだと思っているわけじゃなくて、でもやっぱり女性がこうだと映画はすごく面白い。そういうのが若尾文子さんと増村保造監督の関係にあったのかな。ああいう描き方って、どう思いますか。
船曳: すごく気持ちいいです。『「女の小箱」より 夫が見た』もそうですが、『華岡青洲の妻』(1967年)の若尾文子さんも大好きです。『青空娘』(1957年)とかも。全部素敵ですよね。大好きです。
濱口: ああいう女性、全てをメチャクチャにしてしまう女性というのは、実生活で出会ったらちょっと耐え難いなと思うのですが、映画だと何でこんなに魅力的なのかな。

東大映画研究会、東大文学部、東京藝大

船曳: ちょっと作品自体から離れて、『SOLARIS』が作られた東京藝大というところに私たちが通っていましたが、そっちの話なんかもさせていただければ。じゃあもう経歴から言っていきますか。
濱口: 我々の経歴はかなり丸被りしている。
船曳: 私と濱口さんは、私が18歳の時に東京大学の映画研究会で知り合って、それから文学部に進んで、そこでも美学・芸術学で一緒。東大を卒業してからも、東京藝大の大学院で一緒になった。
濱口: 最初は僕が先輩だったのが、いつの間にか同級生に(笑)。
船曳: 追いかけて、追いかけて、ということで(笑)
濱口: もう10年来の付き合いですね。
船曳: そうですね。濱口さんはやっぱり「映画を見ることで映画を作る」。これは心がけて?
濱口: まあ、そうです。僕は大学に入ってから映画を撮り始めて、非常に何となく撮って、「そんなに面白くなんねえなあ。なんで上手くいかないのだろうなあ」みたいなことを繰り返していました。僕が3年生のときに東大の映画研究会に1年生の船曳さんが入ってきて、いきなりその年に調布映画祭ショートフィルムコンペティション・グランプリを受賞した。
船曳: はい、『山間無宿』(2000年)という映画で。
濱口: 僕が人生の中で初めて出会った才能というのでしょうか。本当にそういう思いがありまして。その時はそんなに映画も見てなかったですし、まあたらたらと映画を作っていた。世の中にはこんな人がいるのだなあ、こんな風にパっと、世の中には才能ある人がいるものだなあと。
船曳: いやいや。
濱口: 本当にそう思って。映画を見ること自体は普通に好きだったので、そんなに難は無く続けていけたのですけど、本当に「ちゃんと努力をしないとだめだなあ」と思って。なんて言うのでしょうか、あるとき「映画を見ることと映画を撮ることは、非常に近いことだ」と思ったんです。それは絵を描くとか、音楽を演奏するとか、いわゆる他の芸術体験ではないような練習と本番の本質的な近さなんだ、とはたと気づいたと言うか。キャメラで撮る同じ対象を、同じように観客もスクリーン上で見るわけです。映画というのはなかなかそうそう作るわけにはいかないんですけれども、映画を見ることによって、撮るまでのインターバルを埋めることができる。映画を見る、映画について考える、映画を作るということで、一つのサイクルを作ることができる。だとしたら、映画を観なくてはいけない、というほど義務感だけでもないですが、そういう思いの中でなっていったという感じが。
船曳: 東京藝大の大学院にいる人たちも、映画を見て映画を作っている人が多かったと思います。まあ、年齢的にも25歳以上が多かったりする。『SOLARIS』も普通は学生が作るような映画じゃないですよね。東京藝大でこの『SOLARIS』を作るときに、セットを組むとか、プロの役者さんを呼ぶとか、かなり頑張ってやった訳ですけど。どうでしたか、東京藝大での経験というのは。
濱口: そうですね、本当にね、船曳さんと一緒にやりました。大変ではありましたけど、やっている時は。「SF小説『ソラリスの陽のもとに』の映画化」という、自分達では決して選ばないような課題が黒沢清監督(教授)から出て、必死になって作った。あの当時は本当に出来るかどうかも分からなくて不安でしたけど。2年間で4本監督して、他の人の現場にも参加する。2年間で大体10本くらいには参加するじゃないですか。そんな濃密な体験というのは他ではなかなかできない。しかも「何のためにやっているのか分からない」ということはなく、本当にやりたいことのために2年間を使える。あの2年間は本当に貴重だったと思います。
船曳: あの2年間で濱口さんの表現が研ぎ澄まされたなあと。私はここ10年、濱口さんの作った作品を全部見ています。東京藝大に入る前に私たちのサークル(東京大学映画研究会)で作っていた映画も、途中から『PASSION』のように男女が集まって会話をしているスタイルになって、その後東京藝大の院でも続けてそういう映画を作っていて。それが『PASSION』という作品に結晶したのだなあって。
濱口: ありがとうございます。ここにいる方々は『PASSION』は見てないかもしれないですけど。
船曳: 会場のなかで、『PASSION』ご覧になっている方は、どれくらいいらっしゃいますかね。
濱口: あ、でも結構いてくださって、ありがとうございます。

演出と役者の生理

船曳: 『PASSION』を作ったときは、この『SOLARIS』で得られた何かが生かされていたのですか。
濱口: 自分の中では双子みたいな作品です。『SOLARIS』では役者さんを非常に抑制する、役者さんの生理みたいなものはほとんど排除して映画を作るということをして、役者さんたちが必ずしも心理として入ってないだろうことを言ったりやったりする。それをフレームの中で捉えて、それをつなげて映画にする。そういうやり方も、まあ間違いなくあるとは思うのですけど、正直に言うと『SOLARIS』を作ったときは何か逃してしまった力がある、それも映画が映画である為に最も必要な何かを逃してしまったのかも知れない、と思いました。それは特に渋川清彦さんに関して思って。その反動というのでしょうか、役者の生理みたいなものの排除を徹底するというよりは、もう少し役者さんとの関係というのをちゃんと作っていきたいという気持ちに本当に初めてなったんですね。それで渋川さんともう1回やったんです。『PASSION』という映画になった。そうそう、『PASSION』と船曳さんの修了作品がAmazonで売っておりますので、もし興味がある方は。
船曳: 「東京藝術大学大学院映像研究科第二期生修了作品集 2008」(東京藝術大学出版会)です。私の作品のタイトルは『錨をなげろ』です。良かったら。
濱口: ぜひ。
船曳: 『PASSION』の脚本を書き上げる段階で、役者さんを呼んでリハーサルをしたり、個人的な質問を投げかけたりしながら本を作り上げていく、そういうスタイルを取られていましたよね。
濱口: 役者さんに出ていただく以上、元々の特性とか魅力とかが付いてきます。役者さん個人にまつわるもの、個人的なものというのは、かなり配慮しました。率直に言うと、役者さんの演技力に関して、十分なものが我々の世代にあるわけではないと思います。
船曳: 我々の世代というのは、我々に近い年代の役者さんたち。
濱口: ええ、そうですね。それを演技力と言うのが正確かはわかりませんけれども、役者さんの側である持続を保つ力と言いますか。それは役者さんだけの責任じゃなくって、もちろん演出家の力量や、観客の視線が変質してしまったこともあるとは思うんですけど。現実を遮断するにせよ、受け入れるにせよ、そうした持続を保つ力が今の役者さんに十分に具わっているわけじゃないという思いがあったし、そういう問題を一緒に生きて行きたいという思いがあった。役者さんの演技に、強固な持続の感覚を与える何かが必要になるのではないか。今回はそれをキャメラの側ではなく、役者さんの内側の深いところから何かを汲み出す。そういうことをやろうとしたのが『PASSION』という映画だった。
船曳: なるほど。やっぱりそういう流れがあって。
濱口: だから僕の希望としては、『SOLARIS』と『PASSION』は2つ並べて見てもらえると1番楽しめるのかな、という思いがあります。色んな状況で難しいことですが。

フレームとキャメラワーク

船曳: 『SOLARIS』に戻りますが、スクリーン・サイズはシネスコで増村作品と共通性がありましたけど、ゆったりとした動きのカメラワークに違いを感じました。原作の『ソラリスの陽のもとに』は、宇宙の長大な時間と向き合うお話でしたけど。
濱口: いや、これはですね、単に結果です。始めた当初は本当に「増村みたいにやろう」と思っていた。増村のフレームは端っこに絶対何か、人の頭とか背中とか美術とかがあって、実際の使用できるフレームが半分くらいになっている。多分あれはシネスコサイズにスタンダード的なサイズを導入する為にそういうことをしていて、それが強烈な閉塞感を生み出すことにもになってますよね。それも再現したかったのですけど、それをやるには人も美術もあの空間には全然存在しなかった。脚本の書き方でそもそも人があまりいなかったし、美術も無理やり入れ込めば入れ込めたのでしょうけど、「ちょっとそれも違うな」と思って。撮影は佐々木靖之さんですけど、その特性もありますよね。
船曳: 芸大同期の佐々木さん。
濱口: ええ「やっちゃん」。彼の特性として、ちょっとルーズめのサイズで、常に人の動きに対応出来るように捉えたい、というのは常にあったと思います。実際それが合っていたかどうかはわからなかったんですけど、すごく信頼していましたし、今回はキャメラマンの采配に任せようと思っていた。フレームもキャメラマンの佐々木靖之さんが決めたものです。そういうのもあって、幽玄さというのもキャメラによって加えられているような気がします。
船曳: じゃあ濱口さん自身はもっと決め込んだ感じでやりたかったけれども、キャメラマンの特性もあって。佐々木靖之さんはやっぱり、たむらまさき(田村正毅)さんが好きだったり。あとは美術にしろ照明にしろ、大映の撮影所と同じことはもちろんできないわけで。条件が整わなかったという感じですか。
濱口: そうですね。ただ、僕も全てを分かってやっていたわけではないので、「これでやったらどうなるのかな」という思いはそもそもあったし、きっと今それをやることでまったく違うものができるという自信もありました。ただ今見ると、「シネスコ、どうだったのかな」と思ったりもします。閉塞感を出したいという思いはあったんですが、それにしてはちょっと空いているスペースが多い。逆にそのことが、閉鎖感と言うか寂寥感に繋がっていれば良いのですが。
船曳: セット撮影で壁一色灰色、という難しさですよね。構図の手前に物を置き、影を落としたりしてフレーム内フレームを作って、その中に人物を置く。私たちの予算規模だとそれを一つ一つやっていくのは難しかった。
濱口: その幽閉感というか、ガチガチに固められているというのも、「力を溜めていく」とさっき言いましたけど、力を閉じ込めて最後爆発させるのには、ひょっとして必要な条件だったのかなと思ったりします。今となってはわかりませんし、『SOLARIS』にはあの当時の我々にできるすべてが込められていて、それによって出た「硬質さ」というのは間違いなくあったと思うんですが。

台詞劇の可能性。古典主義。観客への挑戦

船曳: 濱口さんはこの映画を撮る時に、新古典主義という言葉を使っていたと思うのですが、今でもそういう考えはありますか。
濱口: その頃よりは薄れていますね。基本的には「映画を見て、映画を作る」というサイクル自体は変わらないので、何かしら古典から強い影響を受けながら作っていくというのは変わらない。ただ、今はちょっと違いますね。古典ではない我々の世代なりのアプローチというのはあるのではないか。もちろん、それは古典を学ぶことから生まれるような気もするので古典を見ること自体やめる気はありませんが、古典主義と言うほどガチガチなものはないかな。
船曳: 今の時代に新しく映画を作る上で、会話劇という可能性を見出している。
濱口: そうですね。増村保造監督もやってはいますけど、特に日本映画で台詞というものにちゃんと向き合ってきた人というのはすごく少ない。まあ文化的にそうなんでしょうけども。台詞が画面と拮抗するような力を持っているのは、増村保造監督とか吉田喜重監督とか、その辺りだと思う。そこはやっぱり、もうちょっと煮詰められる。まだまだ台詞というものが映画に与える力というのは、絶対にある。
船曳: なるほど。
濱口: 何か硬い感じになりましたけど(笑)。
船曳: いえいえ。今撮られている、新作『永遠に君を愛す』(58分)ではどうですか。
濱口: これは自主制作で撮ったものです。他の人に脚本を書いてもらったので、台詞というアプローチではないですけど、『SOLARIS』と『PASSION』で得たものをまた一つ上の段階まで持って行けないかという思いから作りました。ある「持続」を捉える為には、一体どこにキャメラを置いたらいいのか、一方でそれを断ち切る為にどんな編集があり得るのか、そういう撮影と編集の為のキャメラポジションを探すことに直結したアプローチをしています。いつか皆さんにお目にかけたいものだなと思うのですが。
船曳: 是非是非。えっと、最近見た映画で面白かったなというの、ありますか。
濱口: 最近見た映画ですか。あんだけ言っておいて最近は映画を全然見れていないな。逆に船曳さん、どうですか。
船曳: 最近ですか?
濱口: クエンティン・タランティーノ監督の『イングロリアス・バスターズ』(ブラッド・ピット主演、2009年)がメチャメチャ面白いと評判ですが。
船曳: あ、見ました。タランティーノは昔から好きですけど、これももちろん、すごく楽しんで見ました。
濱口: 噂を聞いて、これは是非見たいなと思っているのですけど。
船曳: 私もちょっと忙しくて映画をあまり見れていないですけど。今年の映画ですか。
濱口: 前半はすごくありましたよね。クリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』とか『グラン・トリノ』とか。そうですね、何かありますか。
船曳: いや、今年は…。
濱口: え〜会場で、何か今年面白かった映画があるという方。
船曳: そんな風に聞いても答えてくれる人は(笑)。ジェームズ・マンゴールド監督の『3時10分、決断のとき』とか。男の友情にボロ泣きでした。古典的な映画作りを学んだ人ですよね。
濱口: 同軸、視線、アクションつなぎ、と言うとグリフィスか、と思いますが単に古典というわけではなく。マルチキャメラで撮っていると思うのですけど、「視線のつなぎ」におさまらないような「つなぎ」が幾つもあって、でも、それはそこにある「同時多発性」みたいなものを表現するのに必要な「つなぎ」なんだな、と。そういうのが非常に面白いなと思いました。
船曳: どうですか濱口さん、増村と『SOLARIS』の話で言い残しているな、というのはありますか。
濱口: あるとすれば、B級映画にもならないような予算・制作体制だったという話をしましたが、増村の映画ってちょっとバカバカしいところがあるじゃないですか。今日はあまり笑いが起きなかったと思ったのですけど、「そんなバカな!?」と笑いが起きてもいいところが沢山ある。映画を見て行く中で、自分がバカバカしいと思っていたものが、バカに出来ないステージまで行ってしまった時の映画に対する敗北感。「バカにしていたら、この映画すごいことになってしまった」というのが、一番最初に増村作品を見た時の印象でした。『SOLARIS』も、CGとか何か使い方がバカバカしいところがあると思うのですが、そういうバカバカしさというか「本当には見えない感じ」というのが、観客にとって笑えないものに変わってくれれば良いなと思って作っていました。いや、笑っても全然いいんですけどね。ただ、増村から受け継いだものは、と言うとおこがましいですが、やっぱりそういう精神だったような気がします。
船曳: 観客に媚びない作り方ということですかね。
濱口: そうですかね(笑)
船曳: 観客から見て「あるある」とか「分かる分かる」という、生理的に共感できる作風の映画が流行っている。それとは違って、増村保造も濱口さんも、観客に対して挑戦する映画を作っていると思う。そういう映画が絶対必要だと思います。これから。
濱口: 「あるある」みたいな感じで映画を作ってしまうと、いつか共感は崩れてしまう、終わってしまう。きっと映画は持ち堪えられなくなると思います。増村保造監督の映画というのは、おそらく共感とは程遠いものですが、普段あまり映画を見ない方にも、何か届いてしまう瞬間というのがきっとあると僕は思います。自分の作品もそうなれたらと思ってやっています。

質疑応答

司会・伊達: あと十分くらいなので、何か質問なりご意見のある方。あ、じゃあ、後ろの方。
学生: 先ほど、映画を沢山見てから映画を作られるという話をしていらっしゃったと思います。私は、話が面白かったとか、あのシーンが良かったとか、そういう視点で見ることがどうしても多いのですが、お二人に聞きたいのですが、映画を見る時に、映画監督という視点で、例えば「ここの撮り方が」「このフレームの使い方が」「このアングルが」とか、そういうところに気が取られたりしますか。
濱口: 僕はどちらかというと話に興味が向いてしまい、他の要素が見れていないところがあるかもしれない。話を結構楽しんでしまう。
船曳: 私もお話が大好きなので映画好きになったところがあります。
濱口: 物語というのも当然見るのですけど、映画ってフレームがあるじゃないですか。フレームの外の世界にはスタッフがいて、物語とは全然関係のない空間なわけです。そこがどうなっているのか、照明をどう置いているのか、から役者さんとどう折り合いをつけているのか、までですね、フレームの外というのが気になる。でも本当に良い映画は、フレームの外の現場のことを想像させつつ、フレームの外の空間もその映画のものにしてしまう。今回の増村作品の若尾文子がフレームの外を見る視線もそうだったと思うのですけど、フレームの外の現実とフィクションとの違いが分からなくなってしまうのが良いと思うのです。僕自身はフレームの外、というものを一般の観客の方たちより気にしていると思います。「フレームの外」を見ていると言うか、見るように心がけています。
船曳: 視覚的な美麗さで目を奪うのではなく、いかにその世界というものを提示しているかと。その世界に自分を没頭させてくれるかどうか。
濱口: ちゃんと覚醒していても分からなくなるというか、没頭というか、そういうところが映画の楽しさという気がしませんか。
船曳: そうですね。
濱口: もちろんフィクションだと分かってはいるのですが、そのフィクションの力にやられてしまう瞬間を待ちながら、映画を見ているような気がします。
学生: ありがとうございました。

司会・伊達: 他の方でどなたか。じゃあ、左の方。
学生: 今日はありがとうございます。『SOLARIS』について質問があります。最後にホストが死んでしまうと海に大きくなって登場するというのは、何となく分かったのですが、なぜ大きくなるのかが分からなかったので、そこの理由を聞けたらと思います。
濱口: ものすごく身も蓋もない話をすると、原作がそうだった(笑)。勝手に推測しますと、宇宙ステーションの中にいるうちは惑星からの力が弱まっている、きっとね(笑)。それが海に直接落とすと、惑星からの影響力みたいなものが尋常じゃなくなってしまうのではないかと。赤ん坊がでっかくなるというのは、やっぱり『SOLARIS』の中でも一番キーなイメージだと思うのですが、それを使わせてもらった、ということです。
学生: ありがとうございます。

司会・伊達: では先ほど手を挙げた、そちらの方。
学生: 増村保造作品の各々のシーンが、私はものすごく面白くて結構笑っていたのですけど、岸田今日子さんの刺した後の姿も笑いそうなくらいでした。『SOLARIS』も、後ろに立っていたときとか、倒したときとか見捨てたとき、結構面白かったです。あれはカット割とか、監督さんからのアプローチなのだと思います。『「女の小箱」より 夫が見た』の方は、役者さんのアプローチがすごく重くて、台詞1つ1つが真面目だから、逆に面白かったと私は思いました。濱口監督が考える、映画を作る上での役者からのアプローチは何がありますか。
濱口: 役者からのアプローチ、それは何だろうと模索しているのが実際です。単に台詞を言う、単に仕草をする、それも突きつめていけば役者からのアプローチになるかと思うのですが。僕も増村作品のあの感じというのがどうやって出ているのか、全然分からないのですけど。やっぱり役者さんが「えっ、こんなことやるの」と思うような演出を増村保造監督が強制しているのかなと。
船曳: 岸田今日子さんに対して「腕の角度はこれくらいにして下さい」とか(笑)。
濱口: 言っているかな(笑)。
船曳: 「もっと腕の間隔を狭く」とか(笑)。
濱口: 増村作品の場合は、監督がものすごく強く課すところから来ているんでしょう。追い込んで、追い込んで、そして出てきているものというのが、きっとすごくある。僕も「追い込まなきゃいけないなあ」と思ってしまいます。参考になる。ただ一方で、追い込むことで萎縮してしまう役者も間違いなくいる。それはそうなってみないとわからないので、何がしかこちらが腹をくくる、覚悟を持つ必要があるんでしょう。つまりまず自分自身を追い込まないとな、と思います。
船曳: なるほど。
学生: ありがとうございました。

司会・伊達: あと5分ぐらいあるので、もう1人ぐらい。じゃあ前の方。
学生: 視覚的なことも大事だけれど、映画の1要素として、音というものが1つあると思っておりまして、私も両監督と同じ東京藝術大学で作曲を勉強していたのですが、「映画音楽というのは必要なのか」ということと、もう1つは映画音楽を作曲の方が作られると思うのですが、具体的に何かアドバイスをされているのでしょうか。
船曳: 私はホラー映画の『携帯彼氏』という作品で、長嶌寛幸さん音楽家の方と組ませて頂きました。撮影に入る前に長嶌さんが脚本を読んだイメージでスコアを作ってくれました。それを聴いて、私が考えていたものより叙情に振れていると感じたので、「今回はサスペンス調のアメリカ映画のホラー音楽がいいです」とお話しました。それから粗編の状態の作品を見て頂いて、長嶌さんも脚本で読んでいた受けた印象とは違うと考えてくれて。その時点で二人で「スコアと物語が一体となっている感じにしよう」と決めまして。例えば人物が恐怖と直面した時に「バーン!」と驚かしの音を入れるとか。そういうのを全部組み込んだスコアにしようと。音入れまでずっと密にやり取りをしました。
学生: 「映画に音楽自体では必ずしも必要ではない」という風に、考えていらっしゃいますか。
船曳: そうですね、無くてもいいと思っています。私自身、音楽のない作品を作っていましたし。
濱口: 僕もあっても無くてもいいと思う。無くてもいいけど入れる。その場合入れる基準というのは何ですかね。
船曳: 作品によると思います。『携帯彼氏』は怖いシーンは「怖い」と素直に分かるような音楽だったり、お話の流れに誘導する音楽のつけ方でした。一般的な商業映画は大体そうですよね。場面の雰囲気、話の流れに、観客を自然に乗せていく。
濱口: 全く音楽を入れずに映画を作ることは可能なのですが、なぜ音楽入れるかというと、何でしょうね、『「女の小箱」より 夫が見た』とかは、音楽ずっと鳴りっぱなしの印象でしたけど、きっとそれが必要だと感じたからそうしたわけで。『百年恋歌』(ホウ・シャオシェン監督、2005年)とか見ていたときに思ったのですが、まあ誤解を恐れずに言うと、音楽があることにより本来だったら見れないものが見れるようになる。『百年恋歌』はもちろん画面自体素晴らしいのですが、あれを物語っぽく見せているのは基本的に音楽だな、多くの人に受け入れ易くしているのは音楽の要素だなと思いました。音楽は観客がその映画を信じるのを助けてくれる、と僕は思っています。ただ、映画のなかでものすごく積極的な役割が音楽にあるかというと、もちろん映画と観客との関係を助けるだけでも重要な役割を担っていると思うのですが、音楽がなくても信じうる作品だったらいらないのでは、とも思っております。
船曳: 「音楽が鳴っている事に気付かない」音楽の付け方が良いと言われたり、観客の意識が音楽に向かってしまって映画そのものから切り離されてしまうのは良くない映画音楽と言われたりもします。そういう通念に対抗する使い方もありますしね。クエンティン・タランティーノ監督もそうですけど、音楽自体の力がどんどん前面に出てくる。
濱口: そうですね。トニー・スコット監督とかもそんな感じですよね。
船曳: よくいうMTV化。
濱口: MTVっぽいこと自体は、別に罪悪じゃないのですが。
船曳: それ自体は罪悪じゃないです。
濱口: 音楽がかかることを前提に編集すると、不可能なつなぎがどんどん可能になっていくじゃないですか。でも「不可能なつなぎを、あえてつないでいく」こと自体の面白さが感じられなくなるかもしれない。そういう映画の荒唐無稽な力や魅力を削がないのであれば、映画音楽というのは良いのではないか。
船曳: 他の事もそうですけど、映画音楽ってすごく難しいですよね。私も濱口さんも自主映画でやってきた人間なので、既成曲を勝手に付けてたりしてきたじゃないですか。多分『SOLARIS』で初めてオリジナルスコアでやったのでは。
濱口: いや、1本前の『記憶の香り』(16mm/27分、2006年)に一応付けてもらったのですけど。
船曳: あ、そっか。ありましたね。
濱口: ただあの時は、本当に何も分からずに作ってもらって、結果的にあの映画に合わない、と言うか映画音楽と言うには少し主張の強い音楽の使い方になってしまいました。
学生: 今回の『SOLARIS』、その次の作品の『PASSION』に関して、濱口竜介監督は作曲家に「こういう風にして欲しい」という要望をおっしゃったのでしょうか。
濱口: 『SOLARIS』については、意図や意味が伝わりにくいところ、やっぱりそこには音楽が必要だなと思い「こういう風な音楽を作って欲しい」と言いました。最終的に到達したい感情のステージに至るのに階段がぐらついていた。だから、頑丈な梯子をかけた、ような感じです。でも、これも脚本や撮影の段階でそうした曖昧さを減じることができていれば、必要のないことだったとも思います。一方で『PASSION』の時は既成曲なのですけど、編集の人が非常にいい曲を見つけてくれて、その曲を使いながら編集をしていった。CDものなので、演奏だけ録音し直しました。ある1つの曲だけを、すべての場面で使ったのですが、これは何か不思議な効果を持っていたと思います。映画音楽がいかにもな、それらしい意味を失って行くと言うか。まるで映画音楽が装飾というよりは、書き割りのように感じられる。でも確かに観客が見ることを助けてくれていたとも思ってまして。正直に言えば私にとって、映画音楽はまだまだ謎が多いです。
学生: ありがとうございました。


閉会の挨拶

司会・伊達: 明日の第4回は、窪田崇監督にご自身の作品群を上映していただいて、脚本家の渡辺雄介さんとともに解説をしていただき、あと大林宣彦監督『さびしんぼう』(1985年)を上映します。本日は長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。日本の映画の良さを再発見していくこの取り組みをもっと続けていけたらと思っております。以上を持ちまして第3回「カルト・ブランシュ」を終了させていただきます。