アーカイブス
第1回 10月10日(土)11:00~17:00
- 上映作品:
-
『女囚701号 さそり』(1972年/伊藤俊也監督)
主演は「修羅雪姫」シリーズで有名な梶芽衣子。
『人妻集団暴行致死事件』(1978年/田中登監督)
1979年の日本アカデミー賞で優秀監督賞を受賞した作品。
『人コロシの穴』(2002年、池田千尋監督)
ゲスト:池田千尋(映画監督)
高校在学時から自主映画制作を始め、早稲田大学進学後も映画サークルで制作を続 ける。映画美学校の初等科5期生として在籍していた映画美学校の修了制作作品『人 コロシの穴』(2002年)がカンヌ国際映画祭シネフォンダシオン部門に正式招待され る。2007年東京藝術大学大学院映像研究科修了。2008年に『東南角部屋二階の女』で 商業映画デビューを果たす。
聞き手:伊達浩太朗(映画プロデューサー)
東京大学工学部を卒業後、製造業にて研究開発・研究企画に従事。
現在、富田克也監督の次回映画作品『サウダーヂ』(2011年公開予定)のプロデューサー。また本企画「カルト・ブランシュ 〜期待の映画人・文化人が選ぶ日本映画」の企画協力及び司会進行。
株式会社REALWAVE取締役。趣味は読書と物書き、ボクシング。
アーカイブ
開催の挨拶
伊達: 皆様、本日はお越しいただき、ありがとうございます。司会・進行を務めさせていただく伊達浩太朗です。富田克也監督の次回作「サウダーヂ」のプロデューサーなど、映画関係の仕事を少ししている関係で、この企画に協力しております。それでは、ただいまより「カルト・ブランシュ」を始めさせていただきます。
「Carte Blanche」。この言葉は、フランス語で「白紙委任状」という意味だと聞いておりますが、各界で活躍されている映画人・映像ディレクター・文化人などの方々に、映画の選択を白紙委任して上映を行うという、ヨーロッパの方で割と行われている企画形態です。
この会場であり、主催者でもある東京国立近代美術館フィルムセンターは、日本の貴重な財産である日本映画を収集している機関ですが、フィルムセンターの担当者の方から「こういう企画を行いたい」というお話しがあり、私のほうから、知り合いのエイベックス・グループ・ホールディングス株式会社の谷口取締役にお話をしたところ、快く引き受けていただけ、フィルムセンターとエイベックスの2者が共催するという、絶妙な、得難いかたちで開催できることになりました。
さて、各界で活躍されているゲストの方に、日本映画の良さを語って頂き、日本映画の魅力を再発見していくこの企画、本日は第1回で、若い女性の監督である池田千尋さんをゲストにお迎えしています。池田千尋監督に本日の映画のセレクトをしていただき、そのあと対談をしていただきます。
では、池田千尋監督どうぞ。(拍手)
ゲストの挨拶と、上映作品の説明
池田: 今日は来て頂いてありがとうございます。池田です。ただ今ご紹介頂きましたが、私は『東南角部屋二階の女』(2008年)という映画をつくって商業映画デビューしたばかりなのですけれども、今日こういったお話を頂きまして、2本の日本映画を選ばせて頂きました。まず『女囚701号 さそり』(1972年)、伊藤俊也監督の作品です。そして『人妻集団暴行致死事件』(1978年)、これは田中登監督の日活ロマンポルノ作品です。こちらの2本を選ばせて頂きました。伊達: では1本目の『女囚701号 さそり』を簡単に紹介します。いわゆる東映ピンキーバイオレンス路線、60年代後半から70年代にかけてのそういう流れで作られた作品で、学生運動の時代を背景にして政治的な面も内容として出てきます。ご覧になったら多分感じられると思うのですが、マンガの「ゴルゴ13」(さいとう・たかを著)の影響を感じます。「ゴルゴ13」は1968年11月から連載スタートでこの映画は1972年の映画なので、おそらく多少は念頭にあったのかなと。あとテレビの「必殺シリーズ」もこの時代です。ただこちらは原作の池波正太郎「仕掛人・藤枝梅安」が雑誌に掲載され始めたのが1972年ですので、時系列からいいますとこの映画のほうが先なので影響はないはずなのですが、恐らくハードボイルドが人気を博した時代を背景にしてつくられた映画なのだろうと、私は感じました。
池田: 皆さん初めてご覧になると思いますので話しますと、『女囚701号 さそり』と『人妻集団暴行致死事件』は、「男の映画と女の映画」という観点で、過去の日本映画から選びました。『女囚701号 さそり』には、梶芽衣子さんという、まだ現役でご活躍の女優さんなのですけれどもう殆ど伝説的といってもいい女優さん、その代表作です。この映画は強い女というものを分かりやすく表現していると思うのですけど、伊藤俊也監督は女の強さを描こうとした訳ではないのかもしれません。日本という国家に対する反体制を、主人公のさそりに重ね合わせている部分があるんです。けれどもそういった形を打ち破るくらいの力を梶芽衣子さんは持っていて、その強さを感じて欲しいと思っています。女は「見られる性」、男は「見る性」だと言われます。現在では古い言葉かもしれませんが、当時はまだそういったことが生々しく、日活ロマンポルノにしても、女優が裸になる、「見られる性」であることを、どのように女が受け入れて生きていくかということにシフトしていった時代だと私は思うんです。『女囚701号 さそり』の中で注目して欲しいのは「男の視線と女の視線」。主人公のさそりの視線、それに少し気をつけながら見て頂くと違ったものが見えてくるかなと思います。
--- 映画『女囚701号 さそり』(1972年)の上映 ---
伊達: 午後の部を始めさせて頂きます。『女囚701号 さそり』についての客観的な側面の話を、私のほうからまず。この「女囚さそり」というシリーズは、梶芽衣子さんの代表作ということもあり、今でも各方面に大きな影響の与え続けている映画群です。例えば日本テレビの連ドラ「女王の教室」(天海祐希主演、2005年)は、『女囚701号 さそり』の物語の構図を借用した形でつくられています。象徴的ですが、『女囚701号 さそり』という赤い楔形(くさびがた)文字のタイトルと、「女王の教室」というドラマのタイトルの文字デザインは同じです。他の有名な話としては、映画「キルビルVol.1」「Vol.2」を監督しているクエンティン・タランティーノ監督が梶芽衣子さんの大ファンで、『女囚701号 さそり』のテーマソング「恨み節」が、映画「キルビル」でそのままテーマソングに使われている。
体制に対する反逆から、女の目線へ
伊達: この映画を見て、主人公ナミ(さそり)と似ていると思ったのが、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)に出てくる当時の革命家というか学生運動の活動家の重信房子さん。長い髪で真中分けというのが非常に似ています。これは伊藤俊也監督が意識的にナミ(さそり)で描きこんでいる、と言われています。池田: 今日の観客は女性の方が多いです。どうでしたでしょうか? 始まりから国旗というもの凄く象徴的な画から始まる。明らかに伊藤俊也監督は日本に対する反体制というのを主人公ナミ(さそり)に重ね合わせて描いているわけなんですけど、私はこの映画の一番最初に国旗が出ていたことをすっかり忘れていました。梶芽衣子さんが一番最初にでてくる脱走シーン、あのシーン凄く好きなんですけど、あれがファーストシーンだと思い込んでいました。あのシーンで梶芽衣子が出てきて走りだした瞬間に、この映画は急に生き生きしはじめるんですね。確か梶芽衣子さんは「監督のおっしゃる通りにやりました」と言っている。けれど彼女が、伊藤俊也監督が意図した体制に対する反逆という意味合いを飛び越えて、肉体をもって存在した時に、監督の意図をも飛び越える情念を焼き付けた。だから、この『女囚701号 さそり』という映画は凄くヒットしたし、今も梶芽衣子さんの代表作になっていると思うんです。
上映の前に「視線」という話をしましたが、一番最初のタイトルが出るところで、女囚たちが裸で階段を上がって降りて、男性の看守がそれを見ている目があって、その中に梶芽衣子さんが看守たちを睨むカットが再度入って、『女囚701号 さそり』と出るんです。つまり最初は男性の中にいる女性という描き方から始まる。また、どのシーンでもどのカットでも梶芽衣子さんは本当に瞬きをしない。いつも必ず目を見開いているというか、相手を見据える。それが凄く印象的だった。
回想シーンがありますよね。「私が愛した男・杉見次雄」というあの回想シーンで、始め彼女は自分の乳房も隠して視線も合わせない。ずっと顔をそむけて相手を見ない、はっきりとは見ないというあり方だったのが、最後に「裏切られた」と知ったとき、特殊な装置の透明な板の上で、裏切られたと知ってくるりとこちらを向いた後に、最後にライトが赤くなって、カメラの杉見が去った方向、そちらをグっと見据えた瞬間から、彼女はもう「見られるだけの存在」じゃなくて見ている側を見返す。その見返すことで、反発していくという存在に完全に変わっていく。それは凄く映画の記号的な描き方というか、演出でもあったと思うんですけど、でもたぶん梶芽衣子がやったときにそこに命が宿っていて、私はそれが凄いなと思うんです。回想シーンのところはもの凄く特殊じゃないですか。ありえない装置というか、現実だとそんなことはありえないという場所の設定。つまりそれは松島ナミ(さそり)の心象風景ということ。
伊達: そうですね。心象風景ですね。
リアリティと心象風景
池田: そういう描き方。つまり映画のリアリティという話がよくありますけど、ただ現実のままに「現実だとこうだよね」と描くことがリアリティではない。そうではなく、例えばSFだとか元々ありえない世界を描くときにでも、映画の中の画としてそこにあるディテール(detail)に「これが起こりうるのだ」とそれを見た人に感じさせるだけの力をどう持たせるか、それが本当のリアリティだと思うんです。回想シーンはあんなにハチャメチャなことをやっているのに、松島ナミ(さそり)に起きたことだとかナミ(さそり)の心情というのは凄く伝わってくる。それがつまりリアリティ、ナミ(さそり)にとってリアリティはあれだったのだというその描き方も、冒険的なことも、監督第1作目にしては、かなりやっているんじゃないのかと思うんです。伊達: 風呂場の脱衣所で殺し合いになるじゃないですか。襲ってくる女囚の政木の顔がだんだん歌舞伎俳優のようになっていく。あれも襲われる側から見た心象風景的な演出かと。
池田: あれはちょっと笑いますけどね。
伊達: ちょっとやりすぎという感じですかね。
池田: でもこれが怖いのは、最初は「何これ?」と笑いが起きるけれど、だんだん笑っていられなくなる、そこの怖さなんですよね。それが凄いと言うか。「この人たち。これ本気でやっているよ」というその本気度が。
伊達: そのあと刑務所の所長の目にガラスの破片が刺さる。あの演出もちょっと間違うとギャグになってしまう。
池田: そうですね。若干笑えたりするんですけど。目がこうダメになっちゃった、失明したなこれ、という刺さり方なのに、そのあと所長が出てきたときに「ちょっと目を怪我しました」ぐらいな特殊メイクで。「え? 違うでしょ」みたいなそういう突っ込みどころは色々あるんですけれども、そういうことではないんですよね。そんなことには負けない魅力、映画の魅力というのがある。
伊達: この映画について調べていたら梶芽衣子さんのロングインタビューを見つけまして、「黙っていて喋らない主人公」というのは梶芽衣子さんが伊藤俊也監督に提案したそうです。梶芽衣子さんご本人も「目だとか表情とか、そういうところで演技する」ということに、もともと力が入っていた。
池田: だから最後に片桐(横山リエ)が「私は騙されたんだ」と燃やされながら言っているところでの、ナミ(さそり)の「騙されるのは女の罪なんだ」というあのセリフはグッとくるんですよね。そこまでずっと喋らないという形で意思を表示していた人が、フッとそこで言ったときに。私はあのセリフについて思うことが色々あって、「騙されるのは女の罪」というよりも「騙されるんだったら受け入れろ」ということでもあると思うんです。あれは凄く効いていますよね。
伊達: 伊藤俊也監督の描き方として心象風景としての描写が優れている、今の時代の映画はそうじゃないというのは「なるほど」と思いました。話は変わりますが最近見た優れたアニメ映画で、新海誠監督の『ほしのこえ』(2002年)、『雲のむこう、約束の場所』(2004年)、『秒速5センチメートル』(2007年)という3部作と言われているものがあるのですが、新海誠監督のインタビューを見ていたら、やっぱり「心象風景を描く」と言っているんですよね。アニメの中で新宿駅だとか色んな場所が非常にリアリティを持って描かれているように見えるのですけど「実はあれは心象風景なんです」という。
池田: 現実をそのままというとこではなくて、映画なのであるフィルターを通っているんだけれども、それがどうそこに立ち上げられるか、リアルとして立ち上げられるかということだと思います。
視線での表現。しゃべらせるテレビ、しゃべらない映画
池田: 私は今日スクリーンで『女囚701号 さそり』を見直して改めて思ったのが、映画の冒頭でナミ(さそり)と一緒に逃げようとして逃げられなかった、ナミ(さそり)と恋愛関係にあったユキ。あの2人が穴の上下でこう。伊達: 「閻魔攻め」という、大きな穴の上と下で視線が飛び交うシーンですね。
池田: ユキが大きな穴の上のほうにいて、ナミ(さそり)に向かって土を投げ入れるのを拒否しているんだけど、ナミ(さそり)と目があって、視線の交わし合いの後、ユキは看守に従い土を投げ入れ、それを微笑んで受け入れるナミ(さそり)、というやりとりがあるじゃないですか。あれ凄く感動するんですよね。恋愛関係にあるだとか、この2人は恋をしています、恋に落ちましたとか、物語で説明すれば伝わるということではないんですよね。ある典型的なメロドラマの描き方をしているんですけど、あの視線の交わし合いだけで、あの2人はいかに愛し合っているかということが、凄く伝わる。それは、ユキの背景が空バックだったり、そういった絵的な工夫もあるんですけど、私はあのシーンが凄く好きで。結局、ユキとナミ(さそり)は、最初に逃げようとしていますが、逃げられなかったその後、一切2人の関係が描かれずに、あそこで初めてやっとユキがまた出てくる。それで描き切っている、そこに愛があるということを。
伊達: あのシーンまでは、ただの脱走仲間。
池田: そうなんです。それまでに、独房の隣同士で壁をどんどんと叩き合って励まし合うということはあるんですけど、それもとても映画的で。ただそれだけの少ない登場シーンで二人の絆の強さを出せるのが映画だと思うんですよね。凄く好きなシーンです。
伊達: テレビと映画の違いというのが、ときどき話題になったりしますが、私がテレビ関係者に聞いた話だと、画面を見てなくても耳で分かるように役者に全部しゃべらせる、それがお茶の間を相手にするテレビの宿命だそうです。映画は逆に、この映画は典型だと思うのですけど、しゃべらないことが可能である。梶芽衣子さんのインタビューに出てきますが、伊藤俊也監督の第1回デビュー作であるこの作品への出演依頼があったときに、「一切しゃべりたくない」という提案を監督にして、提案を持って帰った伊藤俊也監督が一週間後とかに、「お願いします」と決断した。かなり覚悟を決めてつくった映画で、この1作で終わりにするつもりだったそうです。
池田: 全体に奉仕するというよりも、一つ一つが単独で分かりやすく、伝わりやすくしなければならない。映画は、ビデオで見たりテレビで放映されたりはあるんですけど、やっぱりスクリーンで見るものだって思いますね。映画って体験だと思うんですよね。ある時間拘束されて、全然知らない人たちと一緒に一つの空間の中で映画を見る。そういう体験をする。だから、全体を頭から最後まで全部見て初めて、そこに生まれるものを伝えられる媒体であったはずだった。でも、今の時代、映画館で見る必然性が弱くなってきて、家にホームシアターがあるとか。最近、ヒットしている映画はテレビから派生する作品が多くあったりしますが、分かり易く説明するというテレビ的な作り方が、映画に流れていっているところがある。それは映画本来のところと違うけれども、それはまたそれで映画であるという、ちょっと複雑だなと思いますね、今は。
伊達: そういえば、「キイハンター」(1968年)というTBS系列で放映されていたテレビドラマの音楽をやっていた菊池俊輔さんが、この『女囚701号 さそり』の音楽を担当しています。エイベックスの谷口取締役が先ほど気付かれて、教えてくれました。「さすが音楽業界の人は耳がいいな」と思ったのですが、当時、テレビと映画をスタッフも行き来するようになり始めていたみたいですね。でもやっぱり、まだまだ映画とテレビは全然つくり方を異にしている時代だなと思います。
池田: そうだと思うんです。この『女囚701号 さそり』の伊藤俊也監督は、これでデビューしているのですが、この後そんなにたくさんは撮られていないんですけど、『風の又三郎 ガラスのマント』(1989年)という映画があって、それは子供向け映画なんですね。ちょうど私が小学生の頃に公開していて、私はそれを親に連れられて映画館で見た記憶があるんですけど、それもまた凄い映画なんですね。私にとって本当、トラウマになった映画なんですけど、すっごく怖いんですよ。子供向けで、風の又三郎を題材にしているんですけど。もし機会があったら皆さん、『女囚701号 さそり』で興味を持った方は見てくださると、全然違う映画なんですけど。
伊達: 風の又三郎って怖いんですか?
池田: 『風の又三郎 ガラスのマント』は凄く怖かったんです。どっどど どどうど……と風の又三郎に出てくる歌があるんですけれども、その歌も怖かったんですね。凄く。私は後々、『風の又三郎 ガラスのマント』は、『女囚701号 さそり』の伊藤俊也監督が撮ったんだってことを後々知って、あ~って思った記憶があります。
『人妻集団暴行致死事件』について
伊達: 次の映画『人妻集団暴行致死事件』(1978年)も含まれる、いわゆる日活ロマンポルノシリーズについて、池田監督の方から説明をして頂けたらと。池田: 最近は、けっこう日活ロマンポルノがリバイバル上映されていて、見たこともある方もいらっしゃるかなと思うんです。私は、日活ロマンポルノを最初に見たのが大学生のときで、これはもうビデオで出ているものしか見られない。だから全然リアルタイムでは見られていない、年代的にも見られてない映画だったんですが、ポルノという枠で最初はとらえていたんですね。ロマンポルノなんて見ようと思わなかったんですが、ある日、ある人に「凄いから偏見を持たずに見なさい」と言われて見たんです。私は特に、田中登監督と神代辰巳(くましろたつみ)監督を見ました。
ロマンポルノというのは1971年に始まりました。日活という映画会社が経営的に立ち回らなくなったときに、手っ取り早く低予算で、安いお金で儲けようと。そして、ポルノならそれなりにお客さん集まるだろうと。そういう凄く商業的な発想ではじまった枠なんですけれども、これが10分に1回セックスシーンを描けばそれでいい。で、予算がこれだけと決まっているから、それで「何でも良いから作れ」と言われたんですね。ということは逆手に取ると10分に1回セックスシーンがあれば、どんな難解な映画を撮ってもいいということになった。自分が好きなものを撮れるという状況は殆ど商業映画の世界ではなく、ビジネスとしてあるラインが確立されているから、逆にその中でどんな映画を作っても良いという凄く自由な世界だったんですよね。
伊達: プログラムピクチャーの良い面ですよね。「とにかく作れ」と。
池田: 田中登監督と神代辰巳監督という人は、その場所で自分の撮りたい映画というのを、もう本当に自由に撮っていた人達で、その他にも、森田芳光監督とか周防正行監督とか、いろいろ、相米慎二監督とか、そこから監督がたくさん出て行った。
伊達: たくさんいますよね。日活ロマンポルノから出てきた監督。
池田: だから、あまりポルノという枠組みの中で見なくても、普通に映画として見れるという作品が。
伊達: 『人妻集団暴行致死事件』を私はこの企画で初めて見たのですけど、ポルノだと思って男性が見に行ったら、これ怒りますよね。
池田: だと思います。ポルノとして見に行くというより、「田中登が撮っているぞ」と見に行く人もいたんじゃないかなと。
伊達: 田中登監督のデビュー作が1972年で、この作品は1978年ですからね。
池田: 私は、凄い映画がたくさんあると思っているんです。日活ロマンポルノの中に。さっき一番最初に「女の映画」「男の映画」と言ったんですけど、この『人妻集団暴行致死事件』は、外側から見たら完全に「男の映画」なんです。若い無軌道な男たちの青春映画という側面もある。私が見て欲しいのは、この映画の中に生きている人たちが、どんな風に生き生きしていて、それがどんな人間であるかという、そこを今日は見て欲しいなと思い選びました。
伊達: では、そろそろ上映のほうに移らせて頂きます。
--- 映画『人妻集団暴行致死事件』(1978年)の上映 ---
伊達: 皆さん、如何だったでしょうか。私がまず驚いたのは、「郊外の誕生」の瞬間をこれほどクッキリと切り取った映画があったのかということです。
郊外の誕生の瞬間
伊達: この映画は埼玉県の吉川、草加、越谷の地域を舞台にしています。冒頭に出てくるのは東武鉄道なのですが、これが映画のように地下鉄・日比谷線に乗り入れるのは1962年です。東京のど真ん中とつながり、養鶏が盛んな伝統的な農村地帯に、都市住民が入ってきます。映画には3つの階層が出てきます。中卒、高校中退、農民、土方という「旧住民」。八重子という18歳で工場労働に従事して異性との出会いがない、流民のような「集団就職組」。そして新興の団地に住むホワイトカラーと大学生といった「新住民」。ちなみに撮影に使われた家は、実際の事件が起こった家そのものだそうです。田中登監督は、私がネットで読んだインタビューによると、都市化現象、ドーナツ化現象を十分に意識しながら作品を作っています(「田中登監督ロング・インタビュー」/ 電子映画学術誌「CineMagaziNet!」no.1, Autumn 1996)。
映画の中での犯罪は2つとも旧住民のなかで起こり、新住民には被害が及ばない。関係がないわけです。しかも、罪を犯した青年たちについて旧住民の大人たちは最初から最後まで、警察(近代的組織の代表格)ではなく、村社会のルールで解決を図ろうとする。強姦致死事件まで「1年分のコメと生活費」で解決しようとするわけです。私は、室田日出男が演じる被害者の夫が終盤につぶやく「ついとらんかった」という言葉が印象的でした。都市化のなか閉塞化する村社会。犯罪で食い合うところまで追い込まれていく、旧住民のつぶやきです。
これほどの映画が、ポルノという枠組みの中で存在している。逆にいえば、ポルノという枠組みから見事に「郊外の誕生」の瞬間を描いている。高度経済成長のもとでの社会の大きな変動の中で、木の葉のように翻弄されていく男と女、そして若者。それらの人間模様を、深く描き切っていることに感銘を受けました。
日活ロマンポルノに描かれる女性。受け入れる性
池田: ポルノにはマイナスイメージがどうしてもあったんですけれど、実際に見始めて気づいたことがあって。日活ロマンポルノの中に生きている女たちは、裸になること、見られること、「自分達は見られる性だ、受け入れる性だ」ということを否定しないんですよね。受け入れようとしている。「見ないで」じゃなくて、「いいわよ、見なさいよ」、「やりたいなら、やりなさいよ」と。その強さって、否定して拒否していくことよりもはるかに強いと私は思っていて。今日、女性がいっぱいいるのでこういう話をしていますけど、女として生きること、社会で生きることは難しいことが沢山あると思うんです。でも、今は凄く女の方が強いと言われますし。伊達: そうですね。強い女性がいっぱいいます。
池田: 女性が強い主人公である物語は、いっぱいあるんですけど、大抵が受け入れることよりも攻撃することにまわっている。男性化しているというか。
伊達: 昔だったら生徒会長は男の子で、サークルの部長も男の子。でも今は女性がなる。つまり男女間で権力は交代しているのだけども、それは男がしていたことを女性がただやっている過ぎない面がある。「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年、京都アニメーション)などの最近流行りのアニメも、私にはそう見えます。
池田: 力を得た立場にあっても、女だからこそ出来ることと出来ないことは当然あるわけです。それは男性と同じことなんですけど。私も女として監督をやっていますのであると思うんですけど、そのときにやっぱり受け入れることの強さというのが女の一番の強みで、それが何よりも強いと思っていて、そういうことを凄く日活ロマンポルノを見ていて思います。だから、『人妻集団暴行致死事件』のラストシーンを皆さんがどう思われたか、凄く聞きたい。私は「凄く気持ち悪いな、この終わり方。何だろう、このキャハハハ、何だろう」と思ったんです。結局、八重子は最初ずっと男を拒んでいますよね、純潔を守っていて。八重子には、幸せな家庭を築きたいという夢がある。
伊達: そうですね。
池田: で、「その夢をあなたは受け入れてくれる? じゃなければ私はあなたを受け入れないわよ」と言っていた八重子が、罪を犯した善作から「もう俺はどうなってもいいんだ」と言われた瞬間に、無条件に善作を受け入れるんですよね。善作は受け入れられたから、最後に明るいラストを迎えることが出来て、一方で室田日出男の演じる泰造は被害女性の旦那であって本当に救われないんですけど、自分が妻を征服していると思っていたんですが、実は違ったのだと、彼女が死んだ後になって思い知る。自分はただ受け入れられていただけだったのだと、後にならないと気づけなかった人で。
伊達: 同情されるべき人物が、入れ替わってしまっている。
池田: そうですね。
伊達: 室田日出男が演じる被害者の夫は、映画を見る限り恐らく死んでいると思うのですけど、加害者が明るい。
池田: それは女に守られたというか、つまり彼女にも支配されているわけです、あの男の人は。
伊達: 守られたというか、「女に拾ってもらった」というか。
池田: そうですね。それを田中登という男性の監督がつくっているというのが面白い。田中登監督は、全て意図しているように思います。女に受け入れられることで男が救われ、女に受け入れられていることに気づかず征服欲に酔っていた男は死ぬ。
伊達: 何というか、女を認め、かつ女を非常に崇めている。征服されない女たち。そういう女たちを描こうとしている。女性崇拝を感じます。それが田中登監督の作り方なのかなと思いました。
池田: 女性が好きなんですよね、多分。田中登監督も、神代辰巳監督も。それは見ていて凄く感じます。
説明ではない映像の重ね合わせ
伊達: あと、『女囚701号 さそり』と『人妻集団暴行致死事件』、両方ともあまりストーリー性が強くないですよね。池田: そうですね。
伊達: 劇がどんどん進んでいくというか、ストーリーはもちろんあるのですけど、自分が参加しているような感じで見ていける。
池田: 確かにそうですね。やっぱり映画って物語だけれど物語じゃなくて。説明してお話が起承転結で進んでいきました、ってことだけじゃないじゃないですか。
伊達: ドラマツルギーだけではない。
池田: 説明することや、物語っていくことよりも、その場面場面でこういうことが起こりました、ありました、そして……、という1カット1カット、1シーン1シーンの絵が重なっていく。そういうふうに重なり合っていく中で、シーン同士が響き合ったり衝突したりというのを感じることによって、感情が見る側に生まれていく。そういう力を持っている2作品だと思います。
伊達: 表現の仕方を変えますと、「ああ、こういう起承転結だったのか」と遠くから理解するというより、疑似体験をするというか、そういう感じがこの2本にはしました。
池田: そうですね。疑似体験。
伊達: なんというか、映像が畳み込んでくる。
池田: 映像を見てこっちに跳ね返ってくる力が凄くあるというか。それが生み出しているんですよね、何かを。それを感じるという感情が重なっていって、という風なものですね。
伊達: 説明を理解していくというより、例えば『女囚701号 さそり』もそれほどリアリティはないわけじゃないですか。でも非常に入り込んでいけるというか。
池田: そうですね、それはやっぱりディティールから何からをそこに成立させている力、そこにいる人間、演出でもあるんですけど、本当にそこにあったかのような事象を通して感じるというか。難しくてうまく言えないんですけど。映画の画と言ってしまうと簡単なんですけど。
伊達: そうですね
池田: 画に力が一つ一つあって、そこから感じていくことが出来る。
伊達: 物語を本当にやるのだったら、文学が一番良いわけじゃないですか。言葉で相当なところまで説明できるわけですから。
池田: はい。
伊達: 映画というか、映像というか、そこの力を重視されるのだということを、池田監督はよくおっしゃっているなあと思いまして。
池田: 何が映画かって言われると、たぶんそれって一人一人、監督でも観客の皆さんでも、自分の中の映画ってそれぞれ違ってあると思うんです。でもこれが「映画だ」というものがあるんですよ、絶対に。それを私はまだ上手く言語化できないんですけど、それを感じるこの2本の映画。私も映画を作るときは、自分が映画だと思うものを絶対に踏み外さないように作らなければいけないと思っています。
『人コロシの穴』(2002年)について
伊達: このあと上映するのが、池田千尋監督が22歳のときに作った『人コロシの穴』(2002年)という36分の短編です。この作品はどういう感じで作られたのですか。池田: 私はそれまでは自主製作で、つまり自分でお金を集めて仲間と一緒に少人数で映画を作るということはしていたんですけど、『人コロシの穴』という作品は、映画美学校というこの近くにある専門学校で学んでいたときに、その終了制作の作品として監督したんです。初めて自分のお金じゃない、学校が出してくれるんですけど、そのお金でそこに集っている皆と、監督がいて、撮影がいて、制作がいて助監督がいて、というシステムがある中で作りました。つまり自主映画のように自分で何でもやればいという形ではない映画作り。
伊達: ああ、なるほど体制を組んで。
池田: 人とものを伝えながら一緒に作るというより、自分がやりたいことを自分でやる、というほうがある意味簡単に出来てしまうんですけど、そうではない作り方をしたのは初めてでした。
伊達: 体制を組んで。制作部、撮影部、みたいな感じですよね。
池田: そうです。私にとっても本当に原点みたいな作品で、扱っている題材も何というか。みなさん見ていらっしゃらないですよね。
伊達: これはまだ私も見ていないんですよ。
池田: 見て頂いてからまた話をしたいなと思うんですけど、自分の中にある表現したい欲求・欲望みたいなものを、物凄くストレートにガッと取り出して、観客の方に向けてストレートに投げちゃった作品なんです。だから見る人によっては嫌悪感を抱かれる方も多いですし、凄く好きと言ってくださるか、分かれてしまう映画なんですけど。これはまだ商業映画には全然ならないものですよね。そんな映画です。
伊達: では『人コロシの穴』、カンヌ国際映画祭にも出された映画だということで、今から上映をしたいと思います。
--- 映画『人コロシの穴』(2002年)の上映 ---
伊達: 私も始めて見させて頂きました。
池田: 如何だったでしょうか。
伊達: そうですね、池田千尋監督とはこの間色々お話しましたし、前からお付き合いをさせて頂いているのですが、「なるほど、こういう作品を作る人なのか」と思いました。赤ん坊を見つけるシーンがあるじゃないですか。赤ん坊が最初に出てくるシーン。あそこが物凄く怖くて。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)を思い出します。『シャイニング』という映画は、ご覧になった方もいるかも知れませんが、普通の風景と普通の描写がずっと続くのですけれど、それが1つ1つ物凄く怖い。別に血が飛び散るわけでもないし、残虐なシーンが続くわけではないのに。で、思い出したのは、ホテルの廊下を男の子がキコキコと三輪車で進んで行った時に、曲がった瞬間に居ないはずの双子の女の子がいるというシーン。ただそれだけのシーンなのですけど、『人コロシの穴』も、赤ん坊が映っていてそれを覗き込んでいるだけの先ほどのシーン。私はそこが非常に怖かった。
池田: よく、ご覧になった方には「ホラー映画? これ」って言われます。
伊達: それは、よく分かります。
池田: 私が商業映画として作った『東南角部屋二階の女』(2008年)という作品も、脚本は別の人が書いているオリジナル作品で、私が普段志向しているものとは全く別の内容で、どちらかというとほんわかした、というか。
伊達: ですよね、あの映画は。
池田: なんですけど、実はあの映画も「凄く怖かった」という方がいて。私は怖く見せようとしてないけれど、怖くなっちゃうときがあるんですね。でも本当に、皆さんいかがだったでしょうか。私も久しぶりに見たんですが。
伊達: 会場から質問を取る前に、一つだけお伺いしたいのですが。文京区で起こった「春奈ちゃん殺人事件」を思い出したのですけど、関係はあるのでしょうか。
池田: いえ、ないです。
伊達: ああ、ないんですか。
池田: この映画を最初に思考した時っていうのは、人を殺すってどういうことなんだろうと、凄く考えていた時期があって。ちょっと変態みたいですけど、本当に真剣に考えていて。
伊達: 怖いですね(笑)。
池田: 高校生のときに映画を作り始めて、大学でも映画サークルに入っていたんですけど、その頃からで。人が死ぬことって物凄く簡単にドラマを生んでしまうんです。簡単なんです、本当に。だからサークルの中で作られる映画の中でも、ぼんぼん人が死ぬわけです。人が人を殺したりっていう作品がいっぱいあるのを見ていて、人が死ぬってこういうこと? という疑問が私の中にあって、そんな簡単じゃないだろう、人が人を殺すことって。で、その裏側にあるものが見たいという、そういう出発点だったんです。やっている途中で色んな別のことが重なってきて、最終的にああいう形になったんですけど。あ、ちなみに一応言っておくと、皆さん見ていて『女囚701号 さそり』とちょっと被(かぶ)るところがあったと感じられたかも知れないんですけど、実は『女囚701号 さそり』は『人コロシの穴』を撮った2年後くらいに私は見たんです。今日見ていても思ったんですけど、「ああ足に血が伝っている」とか。女は血が出る生き物なんです。何かそういうことで何となく重なるところがあって。『人妻集団暴行致死事件』は、この映画を作る前に見たんですね。やっぱり殺人を扱っている映画だったので。
--- 会場から:質疑応答 ---
学生: 池田監督の『東南角部屋二階の女』を見て、凄く素敵な映画だなあと思って、このイベントに参加させて頂きました。
池田: ありがとうございます。
「さそり」にみる男性性
学生: 私が質問したいのは『女囚701号 さそり』についてで、『人コロシの穴』については、もうちょっと頭の中で整理したいです。『女囚701号 さそり』で、女の強さを描いていると池田監督がおっしゃったと思うのですが、鬼頭という女刑事が松島ナミ(さそり)の口を割らせるために独房に入りに行くシーンがありますよね。それで松島ナミ(さそり)と抱き合いセックスするシーンがあると思うんですけど、私はそれを見たときに、梶芽衣子という女優が演じているあの役は、凄く男性的な一面をもっていると感じて。で、そのあと池田監督は「松島ナミ(さそり)とユキとは恋愛関係にあった」というお話をされていて、さらに、「ああ、そういう面もあるのかなあ」と思ったんですけど。鬼頭という女刑事と抱き合うシーンについてなんですが、女として出ているんだけど、もしかしたら男性として、男性っぽく出たいというその側面の、あのシーンについて池田監督が思うことがあればお聞かせ下さい。池田: 『女囚701号 さそり』は女の強さ、見られることに対して「見返す」という攻撃性、男っぽい強さを描いているんだけれども、私はやっぱりそれは男化しているだけという部分があると思うんです。あのシーンを見たときに、松島ナミ(さそり)が男と同じ役割を担う、セックスで鬼頭という女刑事を征服することが出来る。あれは征服したということだと思うんですけど、つまり伊藤俊也監督は松島ナミ(さそり)を女として、純粋な女として強いと表現したというよりも、松島ナミ(さそり)に男化させて強く見せたというところはあると思うんです。私の中ではどちらかというと、『人妻集団暴行致死事件』で最後に罪を犯した男を受け入れて、ラストシーンで「アハハ」と笑っている女性の方が、受け入れる強さ、女の強さを体現している。そちらの方が強いと私は思っています。
学生: もう1点。今日初めて「さそり」シリーズを見たんですが、今の時代に生きている私から見たら、かなりショッキングというか衝撃的な面もあったんですけれども、当時年齢制限とかにかからなかったのでしょうか。休憩のあいだに「どういったものだったんだろう」とウェブサイトで調べてみたんですけど、シリーズ化されてかなりヒットしている。今もしあのスタイルでそのまま放映されていたら、間違いなく年齢制限かかるだろうなと思ったんですが、当時はどうだったのかなと思いまして。
池田: どうだったんですかね。ただ、乳首は見せますけど、結合シーンや下半身は物凄く頑張って見せないようにしている。日活ロマンポルノの方も結構見せないようにするんですけど、もっと見せてるんですよね。成人映画だからぼかしが入ってもいいじゃないかということで。どうですかね「さそり」は?
伊達: 「さそり」は、というか東映ピンキーバイオレンス路線の映画は「成人映画」ではないのでは。
池田: 今だと細かくR制限が設けられていますけど、昔は一つしか。
伊達: 「成人映画」か否かしか。フィルムセンターの入江良郎さん、年齢制限って何歳くらいでしたっけ? 成人映画って。
入江: 昔は18歳のレートしかなかったんです(会場から)。
伊達: ああ、18歳で分けるだけ。
入江: はい。で、その時代はちょっと私わかりませんけれど、レーティングは1つしかなかったので、成人映画には割り振られていなかった。そういうことではないかと思います。
伊達: 成人映画指定を受けていたというのは、この間調べていても、見ていないんですよね。ちゃんと調べてみないと分からないんですけど、そういう記述は出てこなかった気がしました。
『人コロシの穴』について
学生: 『人コロシの穴』を見て、凄く衝撃的であまり言葉にまとめられないんですけど、最初から結構主人公のサワコ(桐野ゆき)は眼力が強いじゃないですか。でもあれは最初はこうまだ受け入れてなくて、自分を守っているというか。そういう自分の側から見た世界という感じで、目の力が凄くて怖い部分もあったんですけど、赤ちゃんを沈めても沈めても浮かんできちゃうところで、自分が存在するために自分の世界を守る、世界を守ることをあきらめて、あの主人公の女の子(桐野ゆき)が強くなったのかなと思ったのですが、どうでしょうか。池田: 感想ありがとうございます。そうですね、8年前に作った映画なので、元の意識と違うように見ているところもあるのですが、確かにそうだと思います。彼女がずっと自分の世界を守る、世界を拒否して自分を守ることによってしか生きて来られなかった人で。外に出してはいけないものは全部埋めてしまう、なかったことにするという行為をしていた人間が、犯してしまった犯罪、赤ちゃんを殺してしまった犯罪をいつものように隠そうするんだけれども隠れない、浮かび上がってきてしまう。どうしても隠し切れない事実を目の前にしたときに、初めて全てを受け入れなくてはいけないという、世界を見なければいけないというところに一歩踏み出すんだ、ということは意識しながら作っていましたね。
学生: やっぱり監督もそういう乗り越えた部分があったから、こういう映画を作ることになったんですか。
池田: そうですね、あったと思います。私はどちらかというと自分の感情をあまり表に出せず、今は違う部分もありますけど、かつてはそれを隠すほう隠すほうにまわっていたんです。でもあるとき、自分の気持ちを伝えたい、けれど伝えずに抑えている、ということをしていたときに、映画という表現に出会って。映画で自分をさらけ出す、伝えるということに踏み出したその決意があって、それは出ているかもしれないです。
『人コロシの穴』を今振り返って。映画制作への姿勢
学生: 私は池田監督のことはあまり知らなくて来ているのですが。梶芽衣子さんが好きで、田中登監督も少し知っていたので今日来たのですが、『東南角部屋二階の女』しか知らなかったので、まず上映するこの2作品のを選んだのが池田千尋監督と聞いた時点で、「え!?」と思ったし、でも今日お話を聞けて凄くいいなと思いました。『人コロシの穴』を見て、ちょっと前に私自身が自主映画制作の方に入らせてもらっていたのですが、その時も監督が脚本を作って指揮をとってやるみたいな感じで、監督が作りたいことを本当に監督のためにつくるって感じだったので、こだわりが強すぎて失敗したというか、まとまらずに苦労している部分もあって、「ここは消したくないんだ」とか。今あらためて池田千尋監督が御自身の昔の作品を見て、今さっき「ストレートに全部をぶつけた作品になっちゃったんです」と言われていたと思いますが、「ここはこう描きたかった」とか、「どうしてもここが見せたかった」みたいなシーンの話とかがあったら、聞かせもらえたらと。池田: 今おっしゃった、監督が「僕がこうやりたいんです」って言い過ぎて、周りとうまくいかなくなるということって、往々にしてあることだと思うんです。私も『人コロシの穴』のときは、初めてスタッフがたくさんいるしっかりした体制を組んでやったもので、相当もめたんですね。ヘロヘロになって作ったという記憶があるんですけど。やっぱり「映画って一人で作るものじゃない」というところからスタートするんですよね。監督によって全然みんなタイプが違いますし、やり方も違いますけど、監督が「私はこれを見せたいのだ」と言ったときに、「作りたいんだ」と言ったときに、スタッフに、撮影の人でも助監督でも、どう伝えて、伝えるだけじゃなくてそこにどう化学変化を起こすかっていうことが凄く大事なんですよね。その伝え方とか言い方とか。それを私は『人コロシの穴』を作ったときに初めて学んで、ずっとそれを学び続けているのですけど。例えばまず私が持っているこれを作りたいという「1」があって、そこにもちろん相手の「1」もある、そこから一緒に作る中で単純にそれを「2」にするのではなく、もしくは「1」を主張し続けるのではなく、5になったり6になったり8になったりすることを目指していくっていうことの大切さを学ぶ中で、今『人コロシの穴』を見て思うのは、「本当は自分のイメージではこうであった」とか、「本当はこうしたかった」というのはもちろんあるんです。でも、そのときに自分がそこにいる人達と一緒にそれだけ必死に作るんです。出来たものはこれ以上はない。だから毎回映画を作るときに、後悔とか、「ああ失敗した」ということはあるんですけど、でもそれは「もうこれ以上はなかった」という風に断ち切るんです。「これ以上なかったんだ、この作品では」と。それだけ必死に作るんです。じゃあ出来なかったことを次の作品でどうするかということへ向かおうとします。今実際に『人コロシの穴』を見て、「ああ…」となるところはあるんですけど、でも後悔はないと言いたいです。
伊達: 確かに映画というものは、「みんなで作っていく」という言い方も出来ますが、逆に必然的に人間関係の崩壊を伴いながら進んでいくというか、イザコザが日常ですよね。
池田: それだけ思いが強いんですよね、みんな。監督だけじゃなくて、カメラマンも、誰もかれも。「俺はこう思う」というのが強いんです。それを上手いこと「分かりました」と取り込みながら、でも自分が本当にやりたいことやる、それが一番賢い監督だと思うんですけど、うまくいかないことも多いんですけどね。『東南角部屋二階の女』を見てくださった方がいて、今日また『人コロシの穴』を見てくださって、凄く嬉しかったです、確かに『東南角部屋二階の女』と全然違うタイプの映画。
伊達: 全然違いますよね。
池田: はい、全然違うんです。全然違うんですけど、私にとっては『人コロシの穴』が原点で、その原点から出発したときに、『東南角部屋二階の女』も作れるようになった。そういうことだと思うんです。
伊達: 『東南角部屋二階の女』の豪華なキャスト。カメラマンは日本最高の映画カメラマンといわれている、たむらまさきさん。こういう風にどんどん練習するというか、習熟されていかないと、とても押さえられないですよね。
池田: 押さえるって、私はいつも思いたくはないと思うんですけど。ただ、やっつけられる時があるので、やっつけられちゃいけない、とは思います。
人を殺すということ。人間の性と死
学生: 今日はありがとうございます。先ほど監督が『人コロシの穴』を作られているときに、「人を殺すってどんな感じだろう」ということを考えていたということなのですが、聞き逃していたら大変申し訳ないのですけれども、映画を作っていく過程で、何かしら分かったことってありますか。池田: 分かったことはないです。ただ、昔からとても興味があったんです。戦争とか、人が人を殺してしまうことに。それが何かよく分からなくて、興味があって。人を殺すことって労働なんですよね。だからそれを描く時には徹底的にやらなきゃいけない、適当に人の死を扱ってはいけない、ということだけは今も思うことです。「人を殺すことはどういうことか」はやっぱり分かりません。いつ自分がやっちゃうかも分からないし、いつ自分が殺されるかも分からない。それは人間だからそういうことだと。
伊達: 私は柳町光男監督とちょっとお付き合いさせて頂いているのですけども、柳町光男監督の『カミュなんて知らない』(2005年)、第18回・東京国際映画祭「日本映画・ある視点部門」で作品賞を取った作品なのですが、そのキャッチコピーが「人殺しを経験してみたかった」なんです。後半の殺人シーンが印象的な映画なのですが、映画監督っていうのは人を殺すことを探るのが好きなんですかね?
池田: そうですね。セックスを描くこと、性を描くことと、生と死を描くことって、どこかで凄く繋がっていて、やっぱり人間を追究している。映画を作る人って絶対人間に興味があって、人間に興味があると思うんです。それを突き詰めていくと、セックスだったり、人がなぜ人を殺すのかということだったり、そういう深淵に触れてみたくなるのかもしれないですね。
伊達: 学生さんが多いと思うのですが、チャンスがあったら大学の先生に聞いてみるのも興味深いかもしれません。哲学の根本命題ですよね、セックスと死は。生きることとは死んでしまうことじゃないですか。あとセックス。この2つが哲学の2大テーマ。だからやっぱり映画もそこにいってしまうのですかね。
池田: でも本当は、私は人が死なない映画をつくりたいんです。もう卒業したくて。
伊達: 『東南角部屋二階の女』では、人は死んでいないですよね。
池田: 死んでないです。でもあの作品にも、過去に亡くなった人というのが背景にいるんですよ。
伊達: それが大きな動因となって、物語が動いていく。
池田: そうなんです。だから私は、人の死から生まれるのではないドラマを、一度描いてみたいと思います。
人に伝える難しさ
学生: 本日は貴重なお話を聞かせて頂きありがとうございます。聞きたいことが沢山あります。『人コロシの穴』を見て、今回池田千尋監督の作品を初めて見させてもらったのですが、36分の作品を作るにあたって、制作時間はどのくらいかかったのかなと。あと映画を作っていく中で、人間関係とかも難しいと思うのですが、一番難しいことは何か。最後に、先ほど「映画とは」っていうことを少し仰っていたと思うのですけど、監督の中で「ここだけはずれないようにしよう」、「ここだけは映画の中で絶対に伝えたい」という部分があったら教えて頂きたいと思います。池田: まず制作期間ですが、撮影だけだと12~13日です。映画美学校の終了制作作品というのは、脚本を半年間くらいかけて書いて、脚本が選ばれると映画が作れるんですけど、そこからスタッフィングして準備が2ヶ月くらい。撮影は12~13日という体制でやっていました。その次ですが、映画を作るときに一番難しいと思うことは、「人にどう伝えるか」ということですね。自分が作りたいものや、こうしたいということとの自分自身との格闘というのは、脚本を書くときに格闘するということも、もちろんなんですけど、それはあって当たり前なんですよね。自分の頭の中では当たり間のものを、みんなで作るときに、役者さんにもスタッフの人にも、どういう言葉でどう伝えるか。それによって、出来上がるものがゼロと100くらい変わっちゃうんです。だからそれがいつでも一番難しいと思います。最後の御質問の「映画とは」は、私もまだうまく言語化できていなくて、ただいつも凄く全部が感覚的な細かいことなんですよね。「ここには絶対音楽つけない」、「ここは絶対カットを割らない」、「ここは絶対一続きに見せなきゃいけない」とか、そういう細かいことの集合体なんです。多分それってそれぞれに、私が今まで見てきた映画体験の中で培ったもので。「これが映画だ」と信じているものの枠の中に、そういうディテールが私にとっての映画としてある。「これやっちゃいけない」、「これこうしなきゃ」というのが、ばらばらに詰まっている感じなんです。すみません、うまく言えないんですけど、そんな感じです。
学生: 今日はありがとうございます。「人にものを伝えるのが凄く難しい」ということについてですが、いま人に頼まれて歌を歌っています。その歌を録る時に、曲を作っている人と、依頼した方がイラストレーターなんですけど、その人が音楽を作っている人に伝えて、それを私に「こういうイメージで」とか「じゃあこういう風に歌って」という風に伝えたりするのですが、イラストレーターからダイレクトに私に来るときに、全然何を言われているのか分からなくて、私がこういうイメージかと思ってやったら違うということも結構あるんです。池田千尋監督は、自分が言ったけれど全然違ったという時、もう一回言ったけれど、でもやっぱり違ったとかそういう時に、最終的にどうしても伝わらないときってどうしていますか。
池田: どうしても伝わらないときは、物凄く厳密に指示するわけです。でも本当はそれは一番したくない。「あなたここに立って、2歩歩いて、ふっと左を向いて、じっときつく見つめてください」とか、物凄く具体的に指示をしてしまうと、人はその通りに動きますけど、表面的にしか見えないように私は感じるんです、見えたもの以上の力を持たないような。でも本当に「これどうしよう」と思ったときは、「2秒経ったところで見てください」としたことも、昔はありました。「もう、どうしようもない」と思って。けれど、なるべくそうならないように。あともう一つなんですが、自分が思っているイメージがありますよね、それをまず伝えます、そうしたら相手が全然違うことをやった。それでも、それが私にとってOKだと思えたら、OKだったりするんです。私の指示が「凄く優しい気持ちになって横たわるんです」だとします。私の中では「横たわる」というイメージは具体的に見えているんです。でも具体的には言わない。「優しく」と曖昧な説明をしたときに、私が全然思い描いていなかった形でふっと横たわったとします。それは、「あ、私が伝えたいことはその横たわり方で伝わる」と私が思ったときはそれはOKということは、そういう時はあります。それを受け入れるか受け入れないか、こっち側の判断はあると思います。
女性の描き方
学生: ありがとうございます。もともと聞きたかったことなのですが、今日は他にも『女囚701号 さそり』とか、女性がメインというか、女性の生き方みたいなのがたくさん見えた映画のチョイスだなと思いました。私は『人コロシの穴』の女性の描き方に凄く興味があります。女の人だけど、髪も短いし、Tシャツとかも結構カジュアルな感じだし、あまり女性らしい描き方をしているわけじゃないと思ったんです。でも妊娠して、一応、母親じゃないですけど母体になって、赤ちゃんを殺すとき凄く怖くなったんです。ぞっとしちゃって。「あ、怖いなあ」と思いながら、最後はワンピースを着たりしていたので、自分で自分の道を進もうと思った、みたいな心境の変化もあったんだろうなあみたいな感じで。あとで「なるほど」と思ったんですけど、主人公の女性としての描き方って、どんどんどんどん変化していくように見えたんです。それで気を付けていたことって、何かありますか。池田: あの頃は色んなことを意図せずに、彼女はこういう風に最初は見えていて、次はこうなって、こうなれば変化が見えるだろうということを、意図せずにやっていた部分があります。ただ、あの時は「最初の彼女はカジュアルで、あまり女性的な格好をしていない」って思っていたんです。そして、「最後のシーンはワンピースにしたい」って。本当にそういう単純なことをあの時はやっていたんですけど、そのワンピースには、赤を入れたくて。あの時は言語化が多分出来ていないことが多かったですし、それが意図だといえば意図なんですけど、そこに何か記号的に明確な意図はしていなかったように思います。ただ、「こうしたい」というのは、その時その時ありました。
学生: 最後に、『人コロシの穴』の主人公の女性は、初めはさっぱりした感じですが、最後は泥で顔が汚れたり、一番最後のシーンでは顔をなでたときに血がついたりとか、初めと、服装とかはもちろんですけど、印象も凄く変わったんです。最後にはかなり、初めの綺麗なさっぱりしたイメージとは違い、凄く人間らしいと言ってはおかしいですけど、血がついたりとか泥にまみれたり、そういう描き方が「おおっ!」と思って、凄いなあと感心しました。
池田: ありがとうございます。それは意図していました。意図していたんですけど、意図以上に出た。あれはほとんど順撮り、順番に撮っているんですね。撮っているうちに私もスタッフも役者も、みんな疲弊していって、主人公の彼女がどんどん変わっていった。役に入っていくというか。だから見た目を変えるという意図よりも、彼女自身が変化したことが映ったと私は思っていて。それは、凄く。
男性の描き方
学生: 『女囚701号 さそり』を見ていないので申し訳ないのですけども、『人妻集団暴行致死事件』で強い女性とかが出ていて、それも解説して頂いて分かり易かったけれども、なんかラストの部分も凄くモヤモヤしたんですよ池田: モヤモヤしますね、あれは。
学生: 「幸せになっちゃいけないんじゃないかな、この人は」みたいなのがありまして。『人妻集団暴行致死事件』も女が頑張っている感じなんですけども、池田千尋監督は男性の役的な考えは何かあるんですか。
池田: 男性の役…。
学生: 『人コロシの穴』の恋人役の男性は、最初の部分しか出てこないじゃないですか。彼は責任を負わず、何もやらないみたいな印象を受けてしまったので。
池田: 『人コロシの穴』では記号的に男性を扱ってしまったんです。凄い反省点なんです。よくいるダメ男をちょっと集約してみました、という人物像になっている。あの時は結局彼女が彼にある意味依存していた、その依存を断ち切る流れの中の記号的な人物になってしまっていて。今はもっと男性について、人間として深く描きたいと思いますし、見たいと思っています。
学生: ありがとうございます。
池田: 先ほどの『人妻集団暴行致死事件』のラストシーンがモヤモヤするという話なんですが、私も凄くモヤモヤしましたし、「え、これでいいの?」と思ったんです。「これでいいの?」と大体の人が思うと思うんですよ、気持ち悪いと思うんですよ。でもそれが映画として凄い。これが現実です、と突きつけてくるわけです田中登監督は。釈放された加害者はこのように幸せになっちゃいます、被害者の男は妻を亡くし、死にましたっていうあの突きつけ方が私やっぱり凄いと思うんですね。映画だから夢を見せますっていうことではなく、ある現実として突きつける力が私も凄く感じました。
学生: 男性像として、男性が悪いからこうなってしまったのかなとも思いました。どういう風に池田千尋監督は考えているのかなと。
伊達: そうですね、私も聞いてみたいですね
池田: あれについては男性が悪いとは思わなくて、「可哀想な人達だ」と、なんですかね、思ったんですね。彼女が最後に「俺はもうどうなってもいいんだ」と言われたときに男を受け入れる、あの感情は凄く分かる。まあダメな人達なんだと思うんですけど、基本的に女だってダメだろうというか。生命力の強さは女の方が勝っていると思うんですけど。人間に良いも悪いもないだろうとも思うので。
学生: なんか聞きづらいこと聞いてすいません。
池田: いえいえ。すいません、うまく答えられなくて。
学生: どうもありがとうございました。
死のない映画の可能性
学生: いろんな方々の質問とか池田千尋監督の話を聞いていたら、もう1つ質問なんですけど、私は今大学3年生で、ゼミの先生が高橋源一郎という小説家なんです。生と死、SEX、男と女についてとか、色々なことを学ぶのですが、先生がいつも言っているのが、それらは全部表裏一体でかつ紙一重であると。先生が今まで取り扱ってきた小説や、自分が作り出だしてきた作品の中で、SEXと死がない小説っていうのは、いやSEXと死がない人間に関わる表現物というものは殆どないというお話をされていて、それが自分の中で強く印象に残っているんです。池田監督が先ほど「死のない映画は取れない」、でも「卒業したい」という話をされていたのと絡めて、そういう作品を作り出す、その産みの苦しみ。池田監督も常々感じられていると思うのですけども、さらにそれが「死のない映画を撮る」場合には感じられるのではないかと思うのですが、現在そういった映画の構想というか、どのように形作っていくかの考えはお持ちでいらっしゃるのでしょうか。池田: 私は書き始めたり、こういうものを作りたいと思うと、生と死が結局関わってきてしまうんです。でも人間は生きている中で、死以外のところにある人並み、生きている姿の中のドラマも私は見たいと思うんですよね。難しいですね。今書いている脚本は、人は死なないんですけど、犬が死ぬんです。人間が凄く知りたいと思うこと。そうですね、さっきおっしゃった表裏一体。本当に全ては表裏一体だと思うんです。「愛はホラーである」というその表裏一体、私もそこに凄く興味があって、だから死を扱わないところで「愛とホラーは表裏一体である」、「愛とはホラーである」ということを映画の中で描いてみたい。
学生: ゼミで、村上春樹さんの大ヒットした小説「1Q84」を取り扱ったのですが、やっぱりSEXと死が出てくる。「人ってそんなに簡単には死ねない」という一節があるのですが、映画の中だと、例えば自殺するときにコメカミにピストルを当ててパンとやると簡単に死ぬ、胸を一発打ちぬかれたら死ぬ、アメリカの映画ではよく出てきますけど。実は簡単に人って死ねないはずなんですよね。ちょっとリアルでグロテスクなのですけど、村上春樹さんによれば脳を、口の中にピストルを入れて脳を下から吹き飛ばすのが一番効率的な自殺の方法なのだと。人は簡単に死ねないんだ、でも映画や小説の中では、いとも簡単に人の死が扱われている。それはフィクションだから、というところももちろんあるのですけれども、本当は人間は簡単には死ねないはずなのに、作品の中では結構簡単に死のシーンとして扱われていることに関して、池田監督は「こうだからだ」と思う理由みたいのはありますか。
池田: 死が、とても簡単にドラマを産んでしまうからだと思うんですよね。死ぬまでの苦しみだとか、彼が死んでしまう悲しみだとか、生と死は人間誰しもにとって一番身近な問題なので共感しやすい、感動しやすいんですね。「あー、それ苦しいよね、悲しいよね」って分かり易い。でも実は人って簡単に死なないし、簡単に殺せない。だからやるのだったら、そこを描かなきゃいけない。例えば自殺だったら、自殺するまでに至る苦しみ、自殺することの周りに対する影響もあるけれど、一番苦しいのって、「死にたいけど、死ねなくて苦しい」。私はこれが一番苦しいことだと思っていて、自殺する人を描くんだったら、そこを一番描かなくてはいけないしと思っていて。
学生: 凄く納得しました。
池田: よかったです。どうもありがとうございました。
最後に
伊達: そろそろ時間なので、最後に監督から一言何かあれば。池田: 今日は長い時間ありがとうございました。本当に、女性の方がこんなに来てくれて嬉しいです。私が今日話したことは私が思っていることで、多分皆さんの中でもそれぞれに「私はこう思う」というのがあると思うんですけど、映画から何か自分の中で見えてくるものがあって、それが自分が生きていくうえでプラスになったり、何かしら見方が変わったりすることは凄く大切なことだと思います。また良かったら、田中登監督の映画や伊藤俊也監督の映画を見てみてください。
伊達: 明日は、エイベックスで多数のプロモーションビデオを撮ってこられた、映像ディレクターの武藤眞志さんご自身の作品と、あと黒澤明の『蜘蛛巣城』の上映です。今日とはかなり趣き(おもむき)が変わったプログラムになっています。このように、日本映画の良さを再発見していくという取り組みを続けていけたらと思っております。以上をもちまして、本日の「カルト・ブランシュ」を終了させていただきます。長い時間お付き合いいただき、ありがとうございました。
池田: ありがとうございました。
主な参考文献:
「梶芽衣子インタビュー」(『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.2』所収、シンコーミュージック、2005年)
『戦う女たち ―日本映画の女性アクション』(四方田犬彦・鷲谷花編、作品社、2009年)
『模倣される日本 ―映画、アニメから料理、ファッションまで』(浜野保樹、祥伝社新書、2005年)
『日本映画史100年』(四方田犬彦、集英社新書、2000年)
「人妻集団暴行致死事件」(佐治乾、『日本シナリオ大系 第6巻』所収、映人社、1979年)